原宿表参道欅会理事長
松井 誠一さん

1951年、青森県弘前市生まれ。慶應義塾大学商学部を卒業後、株式会社大沢商会を経て、株式会社松井ビルに入社。
原宿シャンゼリゼ会発足当時から、表参道の環境問題や景観整備に携わる
都内でも指折りの美観を有する表参道。
この街はいかにして生まれたのか?街の成り立ちから現在までの移り変わりを追った。
忍者から五輪まで。
歴史から読みとく表参道
表参道を歩くと、歩みを緩めたくなる瞬間がある。
ビッグメゾンが並ぶ欅並木に、小道に点在する住宅、間を吹き抜ける風。
この街の心地よさはどこからくるのか?
1919(大正8)年、表参道は明治神宮の参道として産声をあげた。
一説によれば、周辺の地はかつて「隠田」と呼ばれ、徳川家の御庭番として活躍した服部家にゆかりの地。
忍の者が隠れた「隠田」から、現在の地名「穏田」に変化したという。
その説を裏付けるように表参道の両側には狭く曲がり、ともすれば行き先を見失いそうな細道が現在も存在する。
一方で、大通りの表参道沿いに建つ街の案内板を見ると、欅並木を中心に網の目状に広がる小道の中を、蛇行するかのように貫く道が。
旧渋谷川遊歩道、通称キャットストリートだ。
ここをかつて流れていた穏田川(渋谷川)は、1964(昭和39)年の東京五輪の際に暗渠化された。
通り沿いの建物を注意深く見ると、道に背を向けて設置されている家屋が少なくない。以前、この辺りが川であったことの名残なのだそうだ。
表参道とキャットストリートが交差する位置には、現在でも橋の名が記された石碑が残っている。
これらの話をうかがったのは、長く近隣の整備に関わる原宿表参道欅会理事長の松井誠一さん。ほかにも興味深い話を聞かせてくれた。
※写真1・2)
かつての穏田川、現在のキャットストリートと表参道の交差点の間に残る橋の碑。
「表参道沿いのポールスチュアートを囲む石垣は、高低差の大きいこの地を開発した際に、土留めとして築いたものです。
また、表参道が敷かれた同年に設置された石灯籠は、東京大空襲の際に、避難の目印にしたという逸話も」と松井さんは語る。
※写真3)
ポールスチュアートが居を構えるビルの一階に残る石垣。
「この地が明治神宮の参道として築かれた当初は人もまばらで、空も広かったことでしょう。現在のような発展を遂げたのは、前回の東京五輪以降です。選手村として使用されたエリアの一部を代々木公園とし、界隈の幹線道路も整備されました。その頃から、マンションメーカーと呼ばれる独立系のデザイナー達が、当時家賃の低かったこの街に店を構えました。そして70年代に入ると流行に敏感な若者が増えていきます。その頃、暴走族対策として欅並木は封鎖され歩行者天国になりました。」
街は、商業活動とそれにともなう人の流れに翻弄され、合理的にならざるを得ない。しかしこの街に広がる開放感には、それに当てはまらない何かがあるようだ。
※写真4・5)
神宮前交差点にある石灯篭。4が昭和28年頃、5が現在の様子。
※写真6)
歩行者天国が実施されていた時代の表参道。
現在の表参道はどのように生まれ、成長したのか?
表参道の都市計画を担う原宿表参道欅会理事長・松井誠一さんに聞いた。
先進的なマーケティング
活動を、街の商店会が行う
現在の表参道をつくったのは誰か?
その答えを探ると意外な団体にたどりつく。「原宿表参道欅会」。いわゆる街の商店会だが、“欅会”は、一般的なそれとは異なる。
「1973年、表参道の雰囲気が変わり始めた頃、私たちは地域の古参メンバー7名で、欅会の前進となる原宿シャンゼリゼ会を設立しました。明治神宮の参道であるこの街が、急速に変化していく様子に危機感を覚えたのです。
私たちにとって1日は、朝の参道を掃いてきれいにすることか始まりますが、新しくこの街に関わる方にも、表参道のもつ意義を知ってほしい。そんな意図もあって、この街の未来についての議論が始まったのです」
原宿シャンゼリゼ会がまず行ったのは街の徹底的な調査だった。
街の変化を追い、現状を分析、さらに来訪者のリアルなインタビューを記録した記念誌を発足から数カ月でまとめた。
来訪者が表参道を訪れた目的や街の印象、当時の流行なども細かく記されている。最先端のマーケティング活動が当時から行われていたのだ。
※写真7・8)1973年に刊行した記念誌と誌面。
“人をつなぐ”街づくり
統一デザイン化計画とは?
「大規模な調査は、組織の発足から10年ごとに行われました。当初は街の現状記録が目的でしたが、徐々に新しいテーマとケーススタディに取り組み、構想を具体化していきました。1993(平成5)年の課題は「未来の表参道をデザインする」。専門家を招いて「統一デザイン化計画」としました。ちょうどその頃、東京都の修景事業が決定し、行政にこの計画を提案できたのです」
東京都はその後、欅会の提案を受け入れ、現在の美しい表参道の基盤が整ったという。
しかし、商店街の振興を図る立場にある欅会が、街づくりのための進歩的なマーケティング戦略を持ちえたのはなぜか?
「私たちは結成以来、営利活動を行なってきませんでした。振り返ると、それがよかったのかもしれません。なぜなら表参道の魅力と商業的な利点は、調和しにくいからです。表参道は規模も小さく、交通のターミナルとしての可能性も期待できない。また、飲食店を例にすると、他の繁華街であれば前日の廃棄物を人気が引く翌日の昼前までに収集すればよいですが、ここではそうはいきません。表参道には住民もビジネスマンもいるので、24時間美しくなくてはならないのです。商業的には不都合な街かもしれませんね。しかし企業だけでなく、住民や来訪者、観光客が一体となった街づくりという視点で考えると、この街の規模や条件は非常に魅力的です。私たちには昔からのリサーチデータがありますし、個々のコミュニティの意見を検証し、実現していくことで、より有機的な街づくりが可能でしょう。事実ここでは、住民や働く人々と私たちは近く、対話できる環境が整っています。表参道はコミュニティの意見によって活きる街ですから」
実際に欅会は、高騰する地価により、やむなく不動産を手放す住民に向け、渋谷区と法整備を行うなど地域問題の解消にも尽力してきた。
街づくりの出発点には商業ではなく、常に人との“つながり”があったといえる。
「地域とのたゆまぬ交流がいつしか文化となり、街の形だけでなく趣さえも変える。表参道に関わる方々すべてが、誇りを持てるような街づくりを目指すことが、私たち欅会の哲学です」
街の活性化に真剣に取り組んだ人々がいるからこそ、今の表参道がある。
この街の軌跡は、間違いなく未来に続いていくはずだ。
※写真9)1993年に刊行した記念誌の誌面。
終戦直後、現在の代々木公園から参宮橋のエリアは、ワシントンハイツという進駐軍とその家族の居住地だった。
その子どもたちが行っていた行事が日本のハロウィンの原型だという。
現在のキディランドの前身にあたる書店が、ワシントンハイツに住む外国人家族向けに玩具を取り扱っており、進駐軍の子どもたちは、こぞってハロウィングッズを購入した。
それがきっかけで表参道のハロウィンは広まり、1980年代にはパレードを開始。
2019年で37回目を迎える。
1951年、青森県弘前市生まれ。慶應義塾大学商学部を卒業後、株式会社大沢商会を経て、株式会社松井ビルに入社。
原宿シャンゼリゼ会発足当時から、表参道の環境問題や景観整備に携わる
原宿だからこそ『食』への考えが深められた
香りにまつわるエシカルな取り組みで原宿という街をより豊かに楽しく
心と身体をゆるめる気持ちいい生活を神宮前から発信しています。
日本人がつくった 生命の森
夢は、キャットストリートに“田んぼ”。そこから新しいなにかが生まれる。
常に文化をエキサイティングに感じられる街
“食のセンス”が光る自然食レストラン
“森の案内人”と見つける東京にひそむ森の息吹
都市の中に、人々が集い、交流するスペースを作りたい