東京感動線

五代目の身に凝縮する市井の
人の姿と技の口伝
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芝浦おかめ鮨

芝浦おかめ鮨 五代目店主 長谷文彦さん
長谷文彦さん
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漁場から花柳界まで
時代とともに変化した芝浦

整然と建ち並ぶオフィスビルの間を、ビジネスマンが行き交う田町エリア。駅から徒歩8分、第一京浜に面した通りの一角に、1855(安政2)年から続く鮨屋がある。
“五代目おかめ”と書かれた暖簾をくぐると、ご主人の長谷文彦さんが出迎えてくれた。

「江戸時代、芝浦は遠浅が続く漁場で、海の幸に恵まれていました。あの芝海老は、ここが由来。そうやって捕れた肴は芝肴(しばざかな)と呼ばれ、“芝の夕河岸”で売られていたんです。早朝から開く献上魚を扱う日本橋と違い、ここは“芝の夕河岸”……といっても実際は昼頃から売られていたんだけれど、長らく庶民の台所を支えてきたんだよね」

初代の頃から、この地に店を構え続ける「おかめ鮨」のエピソードは、この店の魅力でもある。
リズミカルな江戸訛りを交えながら、長谷さんは続けた。

「3代目の祖父の頃は、本芝が最も粋だったかもしれないね。店の裏には料亭が5件あって、芝浦芸者と呼ばれる芸妓たちが行き来していました。彼女たちのお師匠さんのところに出前に行くと、よく叱られてね。引き戸の敷居を踏むと、そこは親父の頭(ほど大切)だから、踏むなと。敷居を踏むと、いつの間にか沈下して、戸がガタつくようになるんです」


【最初の写真】
最近は、外国人のお客ですべてのカウンターが埋まることも。

【写真1】
健筆だった3代目が書いた番付表。

【写真2】
本芝のかつての様子。現在のハロウィンのように、仮装をして祭りを楽しむ町人の姿が写っている。
 
 
 
 
 

先達から学び、変化を捉える
あえてこだわらない生き方

礼節を接客の場から学んだという長谷さん。鮨も父である先代だけでなく、周りの大人たちから学んだそうだ。

「親父の鮨を食べてきたお客さんから、お前の鮨はちょっと違うなと言われたことがありました。これはあまり話したことがないんですが、結局その後、おかめの系譜を受け継ぐほかの店に修業に出されるんです。修業先で驚いたのは、先輩の握った鮨が、親父の味と同じだったこと。職人の世界はおもしろいなと思いました。しかし、別の店に行けば、また違う味を知ることができる。鮨は、ひとつずつ違っていいんだ、とも気づかされました」

こだわりは、あえて“なし”と言う長谷さん。
小学生からお年寄りまで訪れるこの店では、それぞれのお客に合った握りのあり方を大切にしたいそう。
大人の男性にはネタもシャリも大きめに、お年寄りにはふたつに分けるなど、細やかな配慮を忘れない。

「時代が変われば鮨も変わる。3代目の頃の鮨は、コンビニのおむすびほどの大きさでした。それを6貫食べると満足するように図っていたんです。さらに女性が食べやすくするために、半分に切ったところから、江戸前は二貫となったとか。鮨自体が変化してきたように、うちの握りも変わっていくでしょう。近年増えた外国人客が教えてくれるサーモンなんとかロールも、20年後にはうちの十八番になっているかもしれないね!」。

【写真3】
季節のおすすめは、出汁巻き卵とタラの白子の揚げおろし、穴子を海苔とキュウリの桂で巻いたものなど。

【写真4】
冷蔵庫が存在しない時代に出されていた鮨を再現。
 
 
 
 
 

【写真5】
店名の由来は、「おかめなし≒おかまいなし」から。食べたいと思ったどんなネタも頼めるという、店の心意気を表している。

【写真6】
店内を見渡すと、明治時代の書類も
 
 
 
 
 

写真に残る当時の様子
三代目・文三郎氏の記憶

創業当初は、寺社や薩摩藩上屋敷などに出前を行なっていたという「おかめ鮨」。
畳の上で正座し、何人前も握り、それを家紋入りの飯台に入れ、届けていたそう。

三代目の故・文三郎氏は、気っぷの良い江戸っ子だった。
花柳界などとの交流もあり、招かれれば準備をして出向き、お客の好みの鮨を握る、今でいう“ケータリング”も行なった。
写真左は、当時の有名女優らに鮨を握る様子。
右は、当時のカウンター越しに鮨を握る文三郎氏。
今なお残る写真から、当時も変わらず、人々が鮨を楽しんでいたことが伝わってくる。

アクセス

所在地:東京都港区芝4-9-4
Tel:03-3451-6430
営業時間:11:30〜13:00、17:00〜22:00
定休日:土・日曜、祝日
http://okamezushi.com