
「会津戦争の軌跡をめぐる」


母成峠(ぼなりとうげ)
戊辰戦争で大局面を迎えた戦いの地。新政府軍は中山峠から侵攻すると考えた会津藩だが、裏をかかれ母成峠から侵攻、突破され、会津若松城へと進撃された。当時の遺構が数多く残ることで知られ、塹壕や防塁が見られる。
- 住所/耶麻郡猪苗代町蚕養
- 交通/JR「猪苗代駅」よりバスで「中の沢温泉」下車、徒歩約1時間30分
- 電話/0242-62-2048(猪苗代観光協会)
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猪苗代城(亀ヶ城)
1191年(建久2年)、時の支配者・猪苗代経連が築城した会津藩唯一の支城。母成峠の戦いを受け、城代の高橋権太夫は土津(はにつ)神社とともに城に火を放った。現在は公園として整備され、枡形虎口や穴太積みの石垣が残る。
- 住所/耶麻郡猪苗代町古城町
- 交通/JR「猪苗代駅」よりバスで「亀ヶ城入口」下車、徒歩約10分
- 電話/0242-62-2048(猪苗代観光協会)
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自ら城に火を放ったのは、兵が50人ほどしかいなかったから。新選組の土方歳三や斎藤一もいたといわれています。共に県指定史跡となった鶴峰城は私が発見した山城です。

旧滝沢本陣
参勤交代時などの藩主や大名の休息場所だった旧家に、戊辰戦争の際、松平容保が大本営を設営。白虎隊もここから戸ノ口原戦場へ出陣し、本陣近くの飯盛山で非業の死を遂げた。内部は当時の弾痕や刀傷など生々しい痕跡が残る。
- 住所/会津若松市一箕町大字八幡滝沢122
- 交通/JR「会津若松駅」より周遊バス「ハイカラさん」で「飯盛山下」下車、徒歩約5分
- 電話/0242-22-8525
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主力部隊不在の中、戦える者はすべて集められました。銃を扱ったことのない農民兵も含まれ、勝てる訳がなかったのです。そんな状況下で、白虎隊は一矢報いる気持ちで出撃したのでしょう。

日新館
1803年(享和3年)完成の文武両道を掲げた藩校で、戊辰戦争時は病院として使用。新島八重や山川健次郎が学び、多くの逸材を輩出。「ならぬことはならぬもの」は会津の心得「什の掟」の一節。現在は弓道など体験ができる。
- 住所/会津若松市河東町南高野字高塚山10
- 交通/JR「会津若松駅」またはJR「広田駅」からバスで「日新館」下車すぐ
- 電話/0242-75-2525
- ホームページ/日新館

会津藩家老・田中玄宰により、人材育成のために建てられました。先進的で、1806年(文化3年)には日本初の給食を始めています。基本一汁一菜、月に三度はマスかサケが振る舞われたそうです。

会津新選組記念館
会津藩はじめ、新選組、旧幕府軍や新政府軍などの貴重な資料を展示。古式鉄砲研究家の館長が集めたコレクションは、火縄銃などの古式銃や幕末に活躍した洋式銃など幅広い。1階で会津旧家を中心に買い付けた漆器などを販売。
- 住所/会津若松市七日町6-7 2階
- 交通/JR「七日町駅」より徒歩約3分
- 電話/0242-22-3049
- ホームページ/会津新選組記念館

会津軍は装備で比較しても勝てるわけはなかった。例えば射程距離。白虎隊の主力だったヤーゲル銃は300m程度。対して、西軍諸藩のスナイドル銃は1000~1200mでした。
長さ430mの陣地跡は、会津藩が300人を動員して造らせたもの。山を回り込まれ背後から攻められたために陥落したのです。戦死した32人の農民兵は藩の戦死者名簿には載せられていません。