生き残りを賭した
兼続の外交

関ケ原の戦いで反徳川派が負けたことで、上杉家の立場は非常に悪くなる。その戦争のきっかけをつくったのは上杉でもあるからだ。ここから兼続の才覚がフルに発揮される。家康の宰相、本多正信とのパイプを生かして、上杉家の生き残りに奔走する。その一つに、正信の次男を直江家の跡継ぎとして迎えた決断があった。実の子どもがいたにもかかわらず、また上杉家の内情がすべて徳川家に筒抜けになることもいとわず、我が子として迎えたのである。(加賀本多博物館蔵)

正信の子、政重(まさしげ)は、直江家の養子になると名前を勝吉(かつよし)と改める。兼続の主人、景勝から一字をもらう、名誉ある改名だった。いわばスパイのような形で直江の養子となった勝吉だが、上杉家、直江家とは常に良好な関係を保っていた。後に直江家を出て、以前の主人家である加賀(石川県)の前田家に重臣として戻ることになるが、前田家の人となっても、政重と上杉・直江との関係は親しく続いたという。(加賀本多博物館蔵)

いま、政重から15代後の当主が、石川県金沢市で「加賀本多博物館」館長を務めている。博物館では、政重が所有していたと伝わる甲冑、戦争の際に政重の側に立てられた旗、戦闘指揮所を囲った家紋付きの幕など、政重ゆかりの品々が展示されている。(加賀本多博物館蔵)