トランヴェール Train Vert
トランヴェール 2019年11月 福島/山形/新潟/北陸

2019年 11月号 特集
歴史の転換点、
それは会津にあった

「関ケ原の戦い」のきっかけをつくり、負けた西軍に付いた上杉家。しかし、多くの西軍大名が取り潰された中で、幕末まで名家として家を保ち続けた。関ケ原以外にも、何度も危機を迎えた上杉家だが、その難局を乗り切った陰には、常に直江兼続がいた。兼続は、どのようにして名家の存続を成しえたのかを、福島・山形・新潟・石川の各県を巡りながら考察する。

兼続、
天下分け目の合戦へ

春日山城(新潟県上越市)から望む日本海と頸城(くびき)平野

越後(現・新潟県)の領主、上杉家の家来の中でも無名の存在だった樋口与六(ひぐち・よろく)は、主人の上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)が越後領主を継ぐと表舞台に登場。名家の直江家を継ぎ、直江兼続と名を改めた。主人を補佐し、上杉家の執政となり国政・軍事・行政など国の運営をすべて任されるようになる。景勝と兼続のコンビは、やがて日本の政治を動かす一員となっていく。その歩みを始めたのが越後国だった。

神指城

日本を統一した豊臣秀吉の政権は、後に「五大老(ごたいろう)」と呼ばれる5人の閣僚、5人の行政官「五奉行(ごぶぎょう)」を置いて政治を執り行った。直江兼続の主人、上杉景勝は、五大老の一人として、会津(福島県会津地方)を中心に広大な領土を秀吉から預けられ、東北地方の押さえを任された。その拠点として建築が進められたのが、この神指城(こうざしじょう)だった。

甲冑

豊臣秀吉が没し幼い秀頼が残されると、天下人争いが起こる。五大老筆頭、徳川家康はその最有力候補だった。家康は、まず上杉を排除しようと、諸大名を引き連れ上杉討伐へと向かう。そのさ中、大坂で五奉行の一人だった石田三成を中心とする反徳川派の西軍が、徳川傘下の武将を攻める。家康は上杉討伐をやめ、東軍の武将と共に関ケ原で対決。家康が勝利する。写真は、当時、兼続が使ったと伝わる甲冑。(宮坂考古館蔵)