
近代化を支えた
常磐炭田の盛衰
いわきの復興物語〜
福島県から茨城県に広がる常磐炭田は常磐線を生み、本州最大の炭田として隆盛を見た。日本の近代化を支え、太平洋戦争後の復興にも貢献した。絵葉書に見られる当時の写真も交えて、閉山の苦境を乗り越えた復興の歴史を掘り下げる。
写真/「坑口からあがる坑夫たち」若松光一郎 カサノ特級保険所蔵(『写真が語る常磐炭田の歴史』常磐炭田史研究会より引用)
講師/渡辺 文久氏
(いわき市石炭・化石館 ほるる学芸員)

近代化を支えた本州最大の炭田
埋蔵量が約11億トンにのぼる本州最大規模の常磐炭田。その範囲は、福島県南部の富岡町から茨城県北部の日立市に至るが、本講座では炭田の中心をなした福島県内に焦点を当てる。
常磐炭田の始まりは幕末にさかのぼるが、その発見と転機は歴史上の2つの大事件と深く関係している。1つは1853年(嘉永6年)、ペリー提督が率いる黒船(蒸気船)の来航と、翌年の開国である。江戸で蒸気船の燃料が石炭だと知った材木商の片寄平蔵は、探索に乗り出す。そして、ペリー来航から3年後の 1856年(安政3年)、白水村弥勒沢(現・いわき市内郷地区)で石炭層の露頭を発見した。
もう1つの歴史的大事件は1877年(明治10年)、西郷隆盛の挙兵による西南戦争である。この内乱により、九州・筑豊地方からの石炭供給が途絶え、首都圏に近い常磐炭田がにわかに注目された。これを転機として常磐炭田の開発が急速に進み、1897年(明治30年)には石炭輸送を主目的とする現在の常磐線が敷設される。ここに、わが国の近代化を支えた常磐炭田の隆盛が始まる。
写真/明治末頃の常磐線と汽車(『三函湯本勝地名蹟拾五有所』より)。大消費地・東京に近いため、立地を生かした石炭産業が栄えた

絵葉書で見る町と暮らしの変貌
常磐炭田の発展は、原野の炭鉱開発によって炭鉱町が出現した北海道や、炭田の発見により農村地帯が炭鉱町に変貌した九州・筑豊地方とは異なる様相を持つ。この地域では、炭鉱開発の以前からの数々の地場産業が発達していたのだ。
例えば、現在のいわき市は、かつても福島浜通りの経済活動の中心地であったし、周辺では漁業も農業も盛んだった。さらに湯本温泉を資源とする観光業でも潤っていた。そこに炭鉱会社が入り込んでいったのだ。
こうした在来と新興の産業の併存は、さまざまな軋轢を生みながらも街と暮らしを変貌させていく。その様子を往時の絵葉書から読み解くことができる。
明治末期から、全国各地で絵葉書が盛んに発行されたが、企業も宣伝媒体としてこれを利用した。常磐地域におけるそれらからは、街や暮らしの変貌とともに、地域の人々の炭鉱に対する意識の変容までも見て取ることができる。
写真/おみやげとして売られていた入山採炭第四坑(明治末~昭和初年)の絵葉書。炭鉱も名勝の一つになり、当時の最新技術を駆使した竪坑櫓が見られる

炭鉱と温泉、ふたつの復興物語
東日本大震災により、いわき地域も大きな被害を受けた。今もまだ復興の最中だが、常磐炭田にまつわる歴史には逆境を跳ね返した2つの物語がある。それは、炭鉱から観光への産業転換や多角的な事業展開で、炭鉱閉山を乗り越えた大手炭鉱会社と、源泉の枯渇に陥った古湯・湯本温泉の復興物語である。
日本の炭鉱は、太平洋戦争敗戦後の復興期を支えた重要なエネルギー供給源であり、後の高度経済成長への基盤づくりに貢献した。しかし、石炭から石油へというエネルギー政策の転換によって閉山に追い込まれる。
常磐炭田も閉山への道をたどるが、それは湯本温泉にとっても存亡に関わる危機だった。炭鉱開発により1919年(大正8年)に源泉が枯渇した後、湯本温泉は炭鉱の坑内に噴出する温泉の供給を受けていたからだ。急激な社会変動への対処と、歴史ある地域産業の存続、この重大な課題の解決に、常磐地域の人々はどう立ち向かったのか。今日にも通じる復興物語の道程をたどる。
写真/石炭を切削するドラムカッターとカッペ(鉄製の横梁)による機械採炭の様子。炭鉱は採炭能率と安全性向上のため、機械化を進めていた(昭和40年代)

講師:渡辺 文久氏
1969年、福島県いわき市生まれ。いわき市石炭・化石館 ほるる学芸員。日本大学大学院文学研究科修士課程修了、博士課程満期退学。専攻は近世都市史・地域史。常磐炭田史研究会理事、いわきヘリテージ・ツーリズム協議会事務局なども務める。共著に『磐城平城文献等調査報告書』(いわき市)。常磐炭田をはじめ、いわき市の歴史や文化を研究し、企画展や講座等で広く発信している。