青森、岩手、宮城

九戸政実、
覇王・秀吉に挑んだ男

〜天下平定の仕上げ「奥羽仕置」と
九戸一揆の真実〜

豊臣秀吉が行った奥羽仕置。それに抗い、南部氏の勇将・九戸政実(くのへまさざね)は決死の籠城戦を繰り広げた。近年、この九戸一揆の図式が揺らいでいる。最新研究から戦国乱世に終わりを告げた戦いの真相に迫る。
写真/九戸政実が籠城戦を繰り広げた九戸城跡
(写真提供/二戸市教育委員会)

講師/熊谷 隆次氏
(八戸工業大学第二高等学校教諭)

南氏の家紋が刻まれた刀装具の写真

北奥羽を治めた
南部氏とは?

岩手県二戸市には九戸城跡、北の県境を越えた青森県三戸町には三戸城跡がある。九戸城は九戸政実、三戸城は南部信直が本拠とした城だ。一般に「九戸政実の乱」と呼ばれる騒乱の背景には、同じ南部氏一族である両者の確執が大きく影響している。
この「反乱」は、戦国末期の1591年(天正19年)に起こった。秀吉の奥羽仕置に南部氏の実力者である政実が反発し、挙兵。九戸城での籠城戦により終焉を迎えた。だがこれは、仕置軍(秀吉軍)と反乱軍(政実軍)との戦いであり、勝者から見た歴史といえる。近年は、敗者視点の研究が進み、「乱」ではなく、「九戸一揆」「九戸合戦」と呼称も改められつつある。
果たして「九戸一揆」は、政実を首謀者とする秀吉政権への反乱だったのか。奥羽仕置以前の南部氏の勢力拡大と、北奥羽の勢力図を俯瞰するとともに、一揆の発端ともいえる南部氏の宗家・三戸南部氏の家督継承を巡るクーデターまでを追う。

写真/三戸南部氏の居城があった聖寿寺館(しょうじゅじたて)の遺跡で出土した、南部氏の家紋「向鶴(むかいづる)」が刻まれた刀装具(写真提供/南部町教育委員会)

南部信直の肖像画と豊臣秀吉像の写真

北奥羽を襲った外圧、
秀吉の「奥羽仕置」

秀吉が奥羽の統治に乗り出そうとする直前の1588年(天正16年)、三戸南部の信直を惣領とする南部氏は、北奥羽で最大の領土を獲得する。政実率いる九戸南部も、一族の中で着実に勢力を拡大していった。ところが時を経ず、その翌年に南部一族の解体が始まるのである。大浦為信(のちの津軽氏)の独立に象徴されるように、三戸南部の配下にあった国人らが離反していくのだ。このことが、その後の信直と秀吉の接近や、政実の挙兵に大きく影響したと考えられる。
こうした状況下で、奥羽にかかった大きな外圧こそ、秀吉による奥羽仕置だった。東北の諸大名に対し、処分や配置換えなどを一方的に行った秀吉の仕置は、かなり強引なものであったというイメージが強い。しかし最近の研究では、秀吉の統制はそれほど厳しいものではなく、新たな秩序を奥羽に植えこむことが主たる狙いであったことも分かってきた。
奥羽仕置の実態に迫るとともに、仕置軍と相まみえることとなる政実らが、何を不服としていたのかを解き明かす。

写真/南部信直の肖像画(もりおか歴史文化館蔵)と豊臣秀吉像(画像提供/高台寺)。秀吉と通じていた信直と、政実との確執が九戸一揆へとつながっていく

九戸政実の首塚の写真

政実の秀吉軍迎撃と
籠城戦が物語るもの

1591年(天正19年)2月、奥羽仕置という外圧と南部一族の混乱の中で、九戸一揆の戦端は開かれた。挙兵した政実軍は、三戸南部の信直軍に対し、緒戦を優位に進めていた。しかし、窮した信直が秀吉に援軍を求めたことで、形勢が逆転する。
信直は秀吉に服従の意を示し、すでに仕置によって所領を安堵されていたのだから、これは当然の成り行きのようにも思える。ところが、信直が救援を求める以前から、すでに秀吉が、政実らを討伐すべき敵と見なしていたことを示す文書が残っている。また、仕置軍の筆頭武将であった伊達政宗を、蒲生氏郷に置き換える処置もなされている。これらは一体、何を物語るのか。
同年9月、政実軍は九戸城を完全に包囲される。敵方は浅野長政、蒲生氏郷、徳川家康の重臣である井伊直政など、名だたる戦国武将である。政実ら5千の兵に対し、仕置軍6万ともされる兵力で攻めたという籠城戦の展開をつぶさに追う。そして、九戸一揆の歴史における意味をあらためて問い直す。

写真/岩手県九戸村にある九戸政実の首塚。戦いに敗れ、三ノ迫(現在の宮城県栗駒市)で打首となった政実の首を、家臣がひそかに九戸に持ち帰ったと伝えられている

講師:熊谷隆次氏の写真

講師:熊谷 隆次氏

八戸工業大学第二高等学校教諭。1970年、青森県六戸町生まれ。東北大学大学院文学研究科歴史科学専攻博士後期課程修了(博士)。八戸市文化財審議委員、遠野市・北上市史編纂近世部会委員なども務める。専門は戦国期・近世南部氏。共著に『戦国の北奥羽南部氏』(デーリー東北新聞社)、『伊達氏と戦国争乱』(吉川弘文館)、『青森県の歴史散歩』(山川出版社)など。