宮城

大航海時代と政宗の智略

~慶長遣欧使節と鎖国をめぐる秘話~

15世紀以来、欧州列強は大航海時代を迎え、16世紀にはアジアにまで及んだ。伊達政宗は仙台藩を各国との対外交易拠点とするため、支倉常長ら遣欧使節を送り出した。近年の新発見も交え、その顚末にまつわる謎に迫る。
写真/慶長使節船「サン・ファン・バウティスタ」

講師/平川 新氏(東北大学名誉教授)

「坤輿万国全図(こんよばんこくぜんず)」の写しの写真

欧州列強と日本、
遣欧使節をめぐる家康と政宗の思惑

慶長18(1613)年、サン・ファン・バウティスタ号がメキシコへ向けて出航した。伊達政宗の命を受けた支倉常長ら遣欧使節の船出である。だが、この使節派遣には不可解な点がある。同船には、メキシコ副王答礼使のセバスティアン・ビスカイノ、スペイン人宣教師のルイス・ソテロが同乗していたが、彼らが従前、交易交渉をしていた相手は徳川家康である。
時は大航海時代。家康はスペイン領であるマニラ、メキシコとの交易を切望していた。しかし、交易の条件として要求されたキリスト教の布教を強硬に拒んでいた。欧州列強が、キリスト教の布教を入り口に、東アジアの国々を植民地化していることを、家康はよく知っていたからだ。反して政宗は、領内での布教を許可するとして、ビスカイノらメキシコからの使節を仙台に招いた。さらに洋式帆船の建造に着手し、遣欧使節を送り出す。
家康はどのような理由で、仙台での布教と、遣欧使節の派遣を許可したのか。両雄の思惑に迫るとともに、幕府がなぜ列強を退け、鎖国を成し得たのかを、当時の国際情勢をもとに探る。

写真/慶長期に中国で刊行された世界地図「坤輿万国全図(こんよばんこくぜんず)」の写し(写真提供:仙台市博物館)

雄島と、周囲の海底から発見された板碑の写真

ソテロの不可解な
日本報告の真相

遣欧使節派遣の経緯や使節の欧州での動きが詳しく描かれたイタリア人アマーティ著『伊達政宗遣欧使節記』。政宗と宣教師ルイス・ソテロとの出会い、当時を偲ばせる興味深いエピソードなどが、つづられている。その中には、謎めいた記述がある。「政宗が瑞巌寺の仏像の多くを破却した」というのだ。
政宗は仙台開府にあたり、寺社の大改修を施している。瑞巌寺もそのひとつ。神仏への信仰厚い政宗が、瑞巌寺の仏像を破却するとは考えにくい。そのため、研究者の間でこの仙台報告は信ぴょう性に欠けるといわれてきた。ところが近年、松島の霊場・雄島周辺の海中から大量の板碑(いたび)が発見された。ソテロがのこした記述と、この廃棄された板碑とは、果たして何か関連があるのだろうか。その謎を追ううちに当時、石仏や板碑の破壊が全国的に起こっていたことが見えてきた。ソテロ報告の真相に迫る。

写真/松島の霊場として知られる雄島と、周囲の海底から発見された板碑(写真提供:七海 雅人)

東側からみた若林城跡の写真

若林城の築城と廃城の謎

政宗が仙台に築いた城には、青葉城(仙台城)のほかに若林城がある。若林城は、政宗の隠居所として寛永5(1628)年に造営されたが、防御的な性格の強い城館だったことが分かっている。隠居所とは名ばかりのこの強固な城館は、なぜ造られたのか。それは、2度にわたって浮上した、政宗謀反の嫌疑と深く関係し、対徳川の防衛拠点として設けられたものと考えられている。
その一方で政宗は、後継ぎの忠宗に、自分の死後に即座に若松城を棄却するよう申し渡している。実際、政宗が死去すると若林城はすぐに廃城となった。初めに政宗謀反の嫌疑が浮上したとき、家康は密かに仙台攻めの用意をしていた。そして2度目に謀反を疑われたのは、支倉ら使節を帰国させるため、サン・ファン・バウティスタ号が出帆した直後だった。政宗による遣欧使節の派遣は、どのような余波をもたらしたのか。若林城の築城と廃城を手がかりにその謎を解く。

写真/東側からみた若林城跡。この場所は現在、宮城刑務所となっている(写真提供:仙台市教育委員会)

講師:平川 新氏の写真

講師:平川 新氏

東北大学名誉教授。1950年、福岡県生まれ。東北大学大学院修士課程修了。東北大学教授、東北大学東北アジア研究センター長、東北大学災害科学国際研究所所長、宮城学院女子大学学長を経て、現職。著書・編著に『開国への道(「日本の歴史」第12巻)』(小学館)、『通説を見直す 16~19世紀の日本』(清文堂出版)、『戦国日本と大航海時代』(中公新書)など。