勇猛ゆえに波瀾万丈
本庄繁長という男

揚北衆の筆頭ともいえる本庄繁長は、勇猛ゆえに浮き沈みの激しい人生だった。繁長は二度の失脚を経ている。まずは謙信への謀反に失敗したことだ。しかし、信頼は落ちたものの厳罰に処されることはなかった。繁長の兵力の大きさや他の揚北衆への影響力を考慮したのかもしれない。やがて繁長は、新発田重家(しばた・しげいえ)の乱で謙信の後継者、上杉景勝側に参陣し功を挙げ、見事に復権を果たす。こうして失脚を乗り越え、次第に戦場で本領を発揮していった。写真は、新潟県村上市を流れる三面川。その奥に見える台形状の山が、繁長が拠点にした村上城跡だ。

繁長がその名を天下に轟かせたのは、天正16(1588)年に庄内で起きた十五里ヶ原の戦いでのことだった。これ以前、庄内は東禅寺氏と大宝寺氏の抗争で揺れ、前者は最上義光(もがみ・よしあき)を、後者は繁長を頼っていた。そんな状況の下、最上軍が庄内に侵攻し、大宝寺氏が劣勢に陥った。繁長は上杉軍として大宝寺氏を救援するために出兵した。そして激戦の末、最上軍を撃退したのだった。戦場の十五里ヶ原は鶴岡市街の北西に位置し、今は写真のように水田が広がっている。その片隅に、繁長の敵になった東禅寺勝正の墓や、武将たちを埋葬した首塚などが残されている。

十五里ヶ原の戦いで名を上げたものの、繁長はまたも失脚の憂き目に遭う。一揆を扇動した疑いをかけられ、豊臣秀吉に改易されてしまうのである。しかし繁長はまたも返り咲き、老将となった後も活躍した。秀吉の死後、徳川家康と対立し、関ケ原の戦いで敗れた側に付いた上杉は、生き残りのために奔走する。その謝罪と弁明の使者となったのが繁長だった。戦だけでなく政治でも有能な力を発揮したのだ。繁長の墓は福島県福島市の長楽寺にある。年に一度公開される木像は、繁長の姿を映したものだという。