トランヴェール Train Vert
トランヴェール 2020年10月 新潟、山形

2020年 10月号 特集
戦国の雄 上杉謙信・景勝を
支えた揚北衆

歴史に名を遺す人の陰には、彼らを助け、成果を導いてきた人々の存在がある。戦国時代の新潟・庄内では、上杉謙信・景勝二代の陰に隠れて、揚北衆(あがきたしゅう)と呼ばれる誇り高き武将たちが活躍していた。長きにわたって上杉の国を支え続けた、知られざる武将たちの足跡を追った。

色部の奮闘 謙信生涯忘れまじ

平林城の写真

新潟県の中部を流れる阿賀野川は、古くは揚河と呼ばれた。揚北衆とは、この阿賀野川より北に割拠していた豪族たちの総称である。彼らは鎌倉幕府と主従を結んだ御家人の流れをくみ、その出自に誇りを持っていた。戦国時代には、越後国の守護・上杉氏の支配下にあっても領主として独立を貫き通そうとしたほどの強者どもであった。県北部の村上市は揚北衆の有力者、色部氏と本庄氏が拠点にした地だ。色部氏は、麓を荒川が流れる要害山の頂に山城を築き、その西麓の低い丘陵に居館の平林城を建てた。写真は平林城跡。中世の遺構としては良好な状態である。

俗に「血染めの感状」と呼ばれる感謝状の写真

独立心の強い揚北衆をどのように掌握していくか、かの上杉謙信も悩まされていた。この時代の戦国大名に共通する課題でもあった。謙信は色部氏の当主、色部勝長に自軍への参戦を幾度も乞うた。隣国の武田信玄との決戦に色部氏の力が頼りだったのだ。参戦した勝長は、激戦となった永禄4(1561)年の川中島合戦で奮闘。戦後、謙信から「生涯その奮闘を忘れることはない」と、俗に「血染めの感状」と呼ばれる、写真の感謝状を贈られた。本物の血がついているのではなく、多くの死者を出した戦だったためにそう呼ばれた。これは色部氏の名誉の証である。(新潟県立歴史博物館蔵)

保呂羽堂(ほろはどう)の写真

謙信の信頼も厚い勝長だが、永禄11(1568)年に予想外の出来事が起こる。同じく揚北衆の有力者である本庄繁長が謀反を起こしたのだ。勝長は謙信の下で戦うも、陣中で急死した。結局繁長の謀反は失敗に終わり、その信頼は失墜する。一方、勝長の跡を継いだ顕長に対して、謙信はこれまでの色部氏の忠節を称え、序列を本庄氏より上位にすると約束した。家臣団の中で確固たる地位を占めた色部氏は、上杉氏の領地替えに付き従い、最終的には米沢藩に落ち着いた。写真は米沢市の保呂羽堂(ほろはどう)。色部氏は秋田県の保呂羽山の神を信仰し、米沢の地に分霊したのだ。