トランヴェール Train Vert
トランヴェール 2020年9月 東北

2020年 9月号 特集
『おくのほそ道』
翻訳トラベル

みちのくへの旅をつづった芭蕉の紀行文『おくのほそ道』。今や世界各国で翻訳されている。みちのくの歴史、風物、旅の感動を織り込み、句を詠んだ芭蕉。言語も文化も異なる人々には、芭蕉の句はどう映るのだろうか。米国生まれの翻訳家と日本古典文学研究者が芭蕉の足跡をたどる旅に出た。

歌枕の地で英訳鑑賞

白河の関を歩くアーサー・ビナードさんと深沢眞二さんの写真

卯の花をかざしに関の晴れ着かな

Sprigs of verbena
Thrust in my cap-such will be
My fancy attire.
ドナルド・キーン訳『英文収録 おくのほそ道』(講談社学術文庫)より

芭蕉は、尊敬していた西行や能因が訪れた地としてみちのくに憧れ、有能な秘書役である曾良と共に旅に出た。福島県の白河の関は、みちのくの入口。曾良が書いたこの句は、関を越える時に衣装をあらためた古人に倣って、卯の花を笠に飾ろうという作品だ。詩人で翻訳家のアーサー・ビナードさんは日本文学研究家のドナルド・キーン氏によるこの翻訳について、「スペシャルな場所を通るから帽子に卯の花をかざして『これが私の着飾った姿です』と、人物像の愉快さを強調しているところに特徴があるね」と語った。

文知摺石の写真

早苗とる手もとや昔しのぶ摺り

The busy hands
Of rice-planting girls,
Reminiscent somehow
Of the old dyeing technique.
湯浅信之訳『The Narrow Road to the Deep North and Other Travel Sketches』(Penguin Classics)より

芭蕉は福島県北部の信夫地方で、その昔に布をかぶせて乱れ模様の染め付けに使ったという文知摺石(もぢずりいし)を訪れた。その石には都から来た貴族・源融(みなもとのとおる)と地元の娘・虎女との悲恋物語が残り、源融がこの石を詠んだ恋の歌は百人一首に選ばれた。この芭蕉の句は、源融の歌が下敷きになっていると日本古典文学研究者の深沢眞二さんは解説する。「田植えの情景を捉えた、色っぽい句だね。英詩研究家の湯浅信之氏の訳は、old dyeing techniqueと染め付けの情報を織り込んで、句の世界をうまく伝えていると思う」とビナードさん。

松島の海の写真

宮城県の松島を訪れ、その美しさに感動した芭蕉は、あえて句を作らないことで言葉にできぬ感動を表現したといわれる。「句の代わりに、当時景観美を表現する定型だった漢文調の名調子で描写しています」と深沢さん。
『おくのほそ道』には和歌や漢籍、歴史の物語が縦横無尽に織り込まれていることが見えてきた。「この作品は紀行文であると同時に、『古典の翻訳』という側面も持っている。その道をたどりながら読むことも、一種の翻訳かもしれない」とビナードさんは語った。