トランヴェール Train Vert
トランヴェール 2020年11月 千葉、茨城

2020年 11月号 特集
『更級日記』でめぐる、
千葉・茨城

平安時代の女流日記文学を代表する『更級日記』。作者の菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)が『源氏物語』に夢中だった少女時代から晩年までを振り返った自叙伝だが、その舞台に千葉県市原市や茨城県があることはあまり知られていない。孝標女の痕跡を探し、千葉・茨城が栄華を誇った時代に迫った。

どこにいたのか、菅原孝標女

粟又の滝の写真

今からおよそ1000年前、菅原孝標女は父親や継母らとともに京都から東国へ下った。父の孝標が、現在の市原市に置かれていた上総国(かずさのくに)の国司に任命されたためだ。国府とは、奈良から平安時代の律令国家の下、各地に整備された都市のことで、中央から派遣された国司が行政、司法などを行った。孝標女は、13歳までの約4年間という多感な少女時代を市原で過ごした。彼女の目に映った市原の風景はどのようなものだったのだろうか。その痕跡を探して街を歩いた。写真は、市原市を流れる養老川の上流に位置する粟又の滝(大多喜町)。11月下旬には紅葉が見頃を迎える。

史跡上総国分尼寺跡展示館の写真

孝標女が過ごした古代の上総国は、驚くべき大都市だったようだ。その栄華を物語るのが、国府のシンボルだった国分寺と国分尼寺だ。天平13(741)年、仏教によって国を治める鎮護国家の思想の下、聖武天皇の命により各地で国分寺、国分尼寺が建設された。その中でも上総国分寺はとくに規模が大きく、境内には高さ約63メートルもの七重塔がそびえていた。当時では異例の高層建築だったという。写真は史跡上総国分尼寺跡展示館。復元された建築群や出土品の展示があり、古代の上総国の隆盛がよくわかる。

光善寺の写真

孝標女は父の職場である国司館に暮らしていた。その所在地には諸説あるが、可能性が高いのは、市原台地の住宅地にある古甲遺跡(ふるこういせき)だといわれている。ここには平安時代中期に火災に遭った後、豪壮な建物を再建した跡が見つかっている。さらに古甲遺跡から程近い光善寺(写真)には、かつて孝標女ゆかりの薬師如来が実在したと伝えられており、彼女が手を洗ったとされる井戸の跡もある。