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特集

特集2020/06/08

パラテコンドーの太田渉子選手の講演会を開催しました!

(※この講演会は、2020年1月30日に開催しました)

2020-06 08

パラテコンドーの太田渉子選手の講演会を開催しました!

(※この講演会は、2020年1月30日に開催しました)

 今回は、東京2020パランピックに出場が内定しているパラテコンドー太田渉子選手に、当社社員に向けてご講演いただきました。講演会に先立って、当日は太田選手の指導による体験会も開催され、参加者はパラテコンドー独特の「蹴り技」を体験することができました。

競技人生のはじまりは、スキー選手として

 太田選手は山形県の尾花沢市生まれ。「先天性左手全指欠損」という、生まれつき左手の指が短いという障がいがありながらも、ご両親からは何でも一人でできるように育てられました。尾花沢市は豪雪地帯ということもあり、小学校の頃からクロスカントリースキーに取組みます。留学を経て、トリノ2006冬季パラリンピックから3大会連続で冬季パラリンピックに出場し、バイアスロン競技で銅メダル、クロスカントリースキーでは銀メダルを獲得され、ソチ2014冬季パラリンピックでは日本代表選手団の旗手も務めました。小学生のころからスキー漬けの毎日を送っていた太田選手は、「やりきった」という思いもあり、24歳で競技スキーからの引退を決めました。

パラテコンドーとの出会い

 太田選手は引退後、パラリンピックスポーツの普及活動や後進の育成に取り組んでいましたが、東京2020パラリンピックでパラテコンドーが正式競技に決まったという話を聞き、興味を持ちます。
 「その頃私は、スキー以外のスポーツをいろいろ体験しているところでしたが、どれも何か物足りない気がしていたんです。もっと体を動かして汗をかきたい、と感じていたことからパラテコンドーに興味を持ち、とりあえず趣味としてはじめました。」と語るように、当初競技生活に復帰することは全く考えていませんでした。
 そんな太田選手に転機が訪れます。当時はまだ国内の競技人口が極めて少なく、特に女性で大会に参加する選手は太田選手を含めて数名程度。趣味ではじめたものの、パラテコンドーにどれほど打ち込むか葛藤していた太田選手は、2018年にテコンドーの全国大会へ出場したことをきっかけに、「これは自分がやるしかない」と再び勝負の世界にチャレンジすることを決意し、東京2020パラリンピック出場を目指して本格的なトレーニングを開始しました。

スキー競技の経験がパラテコンドーでもいきている

 続いて、実際の映像を見ながらパラテコンドーのルールを解説していただきました。
 コートは直径8m。試合は2分間3ラウンドで行われ、より多くのポイントを獲得した方が勝者となります。パラリンピックでは体重で3階級、障がいの重さで4クラスに分けられますが、体重は同じ階級でも10kgほど幅があるので大人と子どもほど体格差がある選手同士が戦うこともあるそうです。
 「私は左手に障がいがあるので、左側が狙われやすいのはわかっています。それをいかにガードするか。あるいは短い手を出して相手の蹴りを誘ってカウンターを狙うか。選手は自分の体の特徴を考え相手の特徴と比べながら試合を進めるんです。」

 攻撃できるのは胴のみで、他の部位への攻撃は禁止。ポイントが獲得できる攻撃技は蹴りのみで、前蹴り(カット)と通常の回し蹴り=2点、180度の回し蹴り=3点、360度の回し蹴り=4点と決められています。通常は2点ずつ積み上げていきますが、後半に入ると一発逆転を狙って大技を狙ってくる場合があるのでそれも試合の見どころだそうです。

 「今の私を支えているのが、これまでの練習です。長年スキー競技に取り組んできたので、脚力やバランスの良さに一日の長があるのだと思います。スキー競技はシーズンに入る前の体作りで勝負が決まるといわれます。とても辛いトレーニングですが、苦手な練習を克服しないと上にいけないことはわかっているので、自分を奮い立たせ、限界まで追い込んでいました。」とスキー選手時代のトレーニングの積み重ねが、現在のパラテコンドー選手としての活躍につながっていると語ります。

これまでの競技人生を振り返って

 次に、これまでの競技人生で特に嬉しかったことについて、バンクーバー2010冬季パラリンピックのスプリント種目決勝の映像を紹介しながら、当時の気持ちや状況を話してくださいました。決勝の相手は、ロシア、ウクライナ、ベラルーシという世界3強の選手。この日は天候がめまぐるしく変わったため、スキー・ワックスの選定に直前まで悩まされましたが、太田さんはワックス選びが成功して順調にとばします。終盤では徐々に差を詰められていきますが、それでもコース上で旗を降るスタッフの声援に背中を押され、見事2位でゴール!このレースは太田さんにとって大会最後のレースであり、これまで思うような成績を残せなかった太田さんは、やっとメダルに手が届いたこの瞬間、本当に嬉しかったと振り返ります。「チームメイトや家族をはじめ、地元で応援してくださった皆さんが喜んでくれたことが、忘れられない思い出です。」

目標とする人物と、大切な仲間の存在

 また、太田選手の人生を大きく変えたスキー選手との出会いについてもお話してくださいました。小中高校と健常者と同じ学校に通い、インターハイ出場を目指して練習に励んでいた太田さん。しかし心のどこかで「自分は片腕だけでスキーをしているのだから、ちょっとくらい遅くても仕方ない」と思う気持ちもあったといいます。その思いを覆してくれたのが、スウェーデンのアンナ・ハーグ選手でした。

 「自分と同じ片手の選手なのにここまで速くなれるんだ、ということを教えられました。目標とする人であるアンナ選手の背中を追って、パラリンピックを目指したことで私は成長し、表彰台に立つことができたのだと思っています。」と、太田さんは目標とする人物をもつ大切さについて語ってくださいました。

 もう一つ、太田選手にとって大切なものが仲間の存在です。その思いはパラテコンドーを始めたことをきっかけに、改めて強く感じているそうです。
 「テコンドーの練習はミットを持ってくれる相手がいないとできません。でもそれ以上に一緒に練習する仲間がいることで辛いことも乗り越えられるし、喜びは何倍にもなります。」

東京2020大会にかける思い

 「私がやらないでだれがやるんだ」という思いで、新たにパラテコンドー選手として競技生活を再スタートさせた太田さん。「スキー選手時代に私をパラリンピックの世界に導いてくれた監督やコーチ、そして地元で応援してくださる方のおかげで、今も新しい挑戦ができています。」とその出会いに感謝の思いを口にします。

 「東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会は、選手はもちろん、運営サイドの方々、ボランティアスタッフ、JR東日本のみなさんなど、大会に関わる全ての人が成功させたいと強く願っている大会であり、全てがチャレンジだと感じています。私自身、みなさんの応援に対する感謝を伝えるために一つでも多く勝ちたいと思っています。これまでの経験上、金メダルを獲る勢いでいかないと、メダルに届かないことはわかっているので、競技の魅力を広く知っていただくためにも、ナンバー1を目指します!」と東京2020大会への抱負を、笑顔で力強く宣言しました。

鉄道利用で感じていること、海外と日本の違い

 続いて、太田選手が普段の鉄道利用で感じていることについて紹介してくださいました。
 1つ目は「障がい者割引の乗車券をネットや自動券売機で買えるようにしてほしい。」ということ。パラリンピックスポーツの普及活動や、競技生活で出張の機会も多いため、急いでいるときや、年末年始で駅が混雑するときにネット予約ができるとありがたいと感じるそうです。

 2つ目は「エスカレーターは2列で使って、片側歩行をしないというルールをもっと呼びかけてほしい。」ということ。以前駅のアナウンスを聞いたことがあり、安全のためにも、より多くの人がスムーズに移動するためにも、とても良いことだと思われたといいます。

 次に「海外と日本の違い」をテーマにお話をいただきました。
 「私のフランスの友人で、電動車椅子を使っている人がいます。その人は旭川でワールドカップが開催された際にボランティアとして来てくれたり、車椅子だから何もできない、といったことを微塵も感じさせない積極的な人で、一緒にいてとても楽しいです。対して、私の祖父は高齢で足が悪く、歩くのに不便しているのですが、なぜか車椅子には乗りたがらないんです。車いすに乗れば私が押して一緒に旅行にも行けるのにと思いつつ、海外の人と比べて、日本人は車椅子を使うことを『恥ずかしい』と考える人が多い気がします。」と実感をもとに語ってくださいました。

挑戦って、楽しい!

 「東京2020大会は、ゴールではなくスタートです。開催が決まってから、本当に街のバリアフリー整備が進んできていると感じます。どんどん障がいのある方も外に出られるような、多様性のある社会を実現に向けて、すべての人が住みよい街を作っていけたらと思っています。私自身、視野の狭さを感じることもありますが、この大会を契機に偏りなく色んな考え方に触れて、色んな人を受け入れ、自分自身の成長にも繋げていきたいです。」と、理想の社会の姿についてお話くださいました。

 最後に太田選手は、自分の競技人生を振り返り、「私は人生の中で、工夫したり努力したりして成長することを選んできた気がします。失敗や苦しかったことから多くのことを学び、乗り越えてきました。それができたのは支えてくれる仲間の存在、地元の応援があったから。スポーツを通じて出会った仲間は私のかけがえのない財産です。これからもスポーツを楽しみながら挑戦を続けたいと思っています。」と締めくくるとともに、参加者の皆さんに次のように呼びかけました。
 「東京2020大会では、世界中からたくさんの選手とその家族、応援団がやってきます。その方々を、おもてなしの心で応援してください!」

 今回の講演会は、太田選手の人柄が伝わる柔らかな雰囲気の中で、「挑戦って楽しい!」をキーワードに行われました。競技を変えて4度目のパラリンピック出場を決めた太田選手が、挑戦を続ける中で得た学び、そして東京2020大会にかける強い思いをお聞きして、私たちもすべてのお客さまに優しい旅客鉄道輸送サービスを提供するために、JR東日本社員一丸となって「一緒に」取り組んでいくことへの決意を新たにしました。

 JR東日本は、東京2020オフィシャル旅客鉄道輸送サービスパートナーとして、大会に参加する全ての皆さまを応援しています。
 今後も選手やサポーター、ボランティア、観戦者の皆さまを安全・安心に競技会場までお運びし、スムーズにご利用いただくための情報や、快適にご利用いただくためのサービスを提供することで、東京2020オリンピック・パラリンピックへの運営支援を行なっていきます。

太田渉子(おおたしょうこ)
1989年山形県生まれ。先天性左手全指欠損。
クロスカントリースキーやバイアスロンで冬季パラリンピックに3大会連続で出場。トリノ2006冬季パラリンピック、バンクーバー2010冬季パラリンピックで銅・銀メダルを獲得。2014年に競技を引退後、格闘技経験ゼロでテコンドーを始める。障がい者スポーツの普及活動に励みつつ、東京2020大会出場・メダル獲得を目指している。

特集

特集2020/03/27

義肢装具士 臼井二美男さんの講演会を開催しました!

2020-03 27

義肢装具士 臼井二美男さんの講演会を開催しました!

写真左:水谷憲勝さん、中:臼井二美男さん、右:須川まきこさん

今回は、義肢装具士の臼井二美男さんに、当社社員に向けて講演会を行っていただきました。臼井さんは、30年以上にわたって、義肢装具士として切断障がい者の義足製作に携わり、切断障がい者のスポーツ参加をサポートしてきた、この分野の第一人者です。シドニー2000パラリンピック以降、リオ2016パラリンピックまで5大会連続で日本代表選手のメカニックとして同行しています。
この日は、臼井さんが設立した切断障がい者のための陸上クラブの選手会長 水谷憲勝さん、義足のアーティスト・イラストレーターの須川まきこさんも登壇され、義足ユーザーとしての思いを語ってくださいました。

できないのではなく、やらなかっただけ。

 冒頭、臼井さんは「実物に触る機会はめったにないと思うので、ぜひ触ってみてください」と、小学4年生の男の子が使用していた義足と、シリコン製の義手を会場内に回覧しました。参加者の皆さんは、実生活の中で使用されていた義足や義手を手に取り、その構造や重さ、感触などを興味深い面持ちで確かめました。続いて、臼井さんが設立した陸上クラブの活動が取り上げられたニュース映像を紹介してくれました。その中で登場した女性は、小学校2年生のときに病気で足を失い「走ることを諦めていた」と語っていました。その気持ちを変えたのが、臼井さんたちとの出会いです。

スポーツ用の義足は筋力が弱いとうまく履きこなせないため、はじめは転んでしまうこともあったようですが、トレーニングを重ねて走れるようになってくると“諦めていた気持ち”に変化が現れます。そして小学校1年生の運動会以来、実に11年ぶりに陸上競技の大会に参加し、見事に完走! 現在も、臼井さんのクラブで走り続けているそうです。
「できないのではなく、やらなかっただけなんだ」と気づいたこの女性のように、障がいのために走ることを諦めていた人たちも、自身の持つ可能性を知ると「頑張ろう!」と思えるようになると臼井さんは語ります。

歩くことからはじめ、「走りたい」という気持ちをサポート。

義肢装具士として臼井さんが勤務するのは、義肢装具の製作から装着訓練に至るまで一貫したサービスを提供する、民間における国内唯一の総合的なリハビリテーション施設です。30名の義肢装具士が所属し、施設ではもちろん、各地の病院や身体障がい者更生相談所に出向いて義肢装具の相談や製作を行っています。また、付属診療所には医師や理学療法士が所属し、義肢や装具を作るための医学的診断やリハビリテーションなども行っているそうです。

 最近は、義足に特化したリハビリテーション、筋力トレーニング、ストレッチなどを行っていることがテレビやインターネットで紹介されることも多く、難しい症例の方が全国から訪れるようになったといいます。現在は、約5000名の方が定期的に施設へ通っているそうです。
「せっかく義足を作っても、筋力がないと履きこなせないこともあります。まずは入院中に固くなった股関節やひざ関節を揉みほぐし、歩くための体づくりから始めることが大切なんです。」と臼井さんはリハビリテーション施設の重要性を語ります。
また、東京2020パラリンピック競技大会開催を控えて盛り上がりを見せているのが、臼井さんが設立した陸上クラブの活動です。30年前には約4名で発足したクラブでしたが、現在のメンバーは218名。中には理学療法士や若手の義肢装具士、ボランティアの方々も含まれており、今もメンバーは少しずつ増えているそうです。
「ここで指導しているのは『義足で走る』ことです。義足ユーザーは、歩くことはできても走ることは難しいのが現実です。そういったことに気付いたのが30年前でしたが、欧米に目を向けると、当時からパラリンピアンが出ています。日本は『障がい者もスポーツをやる』という意識が遅れていることに気づき、それ以来『パラリンピアンのように走れなくてもいいから、とにかく外に出て体を動かそう』と声をかけ合い、活動を続けています。」と設立時からの思いを語ってくださいました。

 練習は基本的に週1回。臼井さんや理学療法士が付き添い、伴走しながら走り方を指導しているそうです。まずは“走りやすい義足”を参加者に貸し出し、少しずつ大会出場を目指していきます。その一方で、競技目的ではなく純粋に「走りたい」という気持ちから参加する60代、70代の義足の方も増えているそうです。現在は、小学校3年生から75歳まで、とても幅広い年齢層の方が参加しているといいます。
「パラリンピックアスリートを育成したいと考えると10代の方に頑張って欲しいという思いはありますが、高齢の方が『外に出たい』『走ってみたい』と考えるのはとてもいいことです。日本全体の高齢化が進む今日、障がい者スポーツの意義はそこにもあるのかな、と考えるようになりました。実際、3歳でも75歳でも『走ってみたい』という強い思いを持つ人はいるし、その思いをサポートしていると、自然と目標を持って上を目指す選手が出てくるものです。だからこそ、だれでも幅広く受け入れることを心がけています」と障がい者スポーツに挑戦することが多くの人の生きがいにつながっているといいます。

スポーツに取り組むことで、自立意識が生まれる

 ここで臼井さんは例として、13歳で両足を膝上切断した女性の取り組みを紹介します。
「一般に、両足膝上切断だと車椅子で生活する人が多いんです。でも彼女は、テレビでパラリンピックを見て、海外には自分と同じ状態でも車椅子を使わずに走っている選手がいることを知ったんです。歩くだけではなく『走りたい』と考え、チャレンジしてきました。」と語ります。普通の義足で歩くことからトレーニングをはじめ、杖を使わずに通学できるようになりました。大学進学後はパラ陸上部に所属し、大会で両足を膝上切断した人たちの階級であるT61クラスで世界記録を出しました。

 「両足切断で走れる人は、世界的にも多くはありません。けれど、先端技術を取り入れて義足が進歩したこともあり、走るための環境は整ってきています。スポーツに取り組むことは、体幹が強化されてバランスが良くなるだけでなく、自立意識を生む効果もあるので、ぜひ多くの人に挑戦して欲しいですね」と障がい者スポーツを通じて、日々周囲からのサポートを受ける切断障がい者の方が自立意識をもてるようになることの重要性を語ります。
一方で、障がい者が利用できるスポーツ施設は、まだ47都道府県のすべてに開設されるには至っていません。また、生活用義足とは違い、障がい者スポーツ用義足には公費のサポートがないため、育成段階では経済的に厳しい状況が続いているそうです。

自分の体を受け入れるプロセスとして絵を描く

 「障がい者スポーツの観点でお話をしてきましたが、走るのが苦手な人、もともと運動音痴の人など、スポーツに拒否反応を示す人はけっこう多いんです」と臼井さんは語ります。そうした人たちにも前向きになって楽しんで欲しい。そんな思いを義足のアーティスト 須川さんと共有する中で始まったのが、義足ファッションショーです。
須川さんは、14年前、悪性肉腫のために股関節切断という大手術を経験し、義足を履くようになりました。

 「命に関わる病気になり、さらに義足という二重の衝撃が受け入れ難く、辛い時期を過ごしました。」と語り始めます。もともとデザイン事務所に勤務し、イラストを描いていたことから、「自分の体を受け入れるプロセスとして」義足の女の子を描き始めたそうです。
「足を失った自分の体にすごくコンプレックスを感じました。でも、ファッション雑誌に並んでいても違和感のない“キレイな義足”があれば、自分の体を受け入れられそうな気がしたんです。そこで、まだ入院中で点滴も取れていない時期から、ベッドの上で義足の女の子のイラストを描き始めました。」と語ります。須川さんが足を失ったのは31歳の時。イラストを描くことで少しずつ自分の体を受け入れることができたそうです。
「でも、10代で思春期の女の子が義足になったらどうやって乗り越えるのだろう?」
そう考えた須川さんは、自分が描いたイラストを“義足の後輩たち”に見せました。するととても喜んでくれたため、その後は個展を開くたびに“義足を履いたキレイな女の子”のイラストを描くようになったそうです。

認識が変われば、見える風景も変わる

 絵を描くことで自分の病気と障がいを乗り越えてきた須川さんは、さらに一歩踏み出し、ファッションショーの企画を手がけるようになりました。
「発端は、2011年に原宿でゲリラ的にファッションショーをやろう、という企画でした。実はその頃、私はまだ自分が義足であることを隠しがちだったんです。でも企画を通じて『義足だけどこんなに元気に、ファッショナブルにすごしているよ!』ということを、地方にいてなかなか義足の情報を知らない方や、義足のために外出を躊躇している方への思いもあって、全国発信したいと思ったんです。」と須川さんは当時の思いを語ります。

 義足を隠すことなく原宿の街を闊歩する須川さんの姿に、当時は賛否両論があったといいます。それでも須川さんは「時代はきっと私たちの価値観に追いついてくる」という強い信念を持って表現し、発信することを選び、今日まで頑張ってきたのです。
ここで須川さんは、2016年に行われたファッションショーの映像を紹介してくださいました。参加メンバーのコスチュームは義足がキレイに見えることを重視して須川さんがデザインしたものだそうです。

 「ステージに立つことの醍醐味は、普段はコンプレックスに感じている義足がチャームポイントになることです。義足を主役にして、堂々と見せられることが気持ち良くて。『認識が変われば見える風景も変わる』ことを経験できたことが、すごく良かったです。」と自身の義足に対する認識が変わることで、周囲からの認識も変えていくことができることに気づいたそうです。

 東京2020オリンピック・パラリンピックを機に、共生社会の実現が課題となっていますが、共生社会の理念はまだまだ浸透しているわけではありません。須川さんが示唆する通り、「共生社会の実現という価値観に『追いついてくる』時代を、私たちみんなで創っていくことが大切だと感じました。

風を切って“走る”ことの気持ち良さ

 続いて、臼井さんの陸上クラブで選手会長を務める水谷憲勝さんが登壇しました。水谷さんは2001年にバイクの事故で足を切断。自分に合う義足が見つからずに困っていたところ、臼井さんと巡り会い、義足で自然に歩くことができるようになったそうです。そして臼井さんの誘いを受け、障がい者陸上クラブの設立に参加しました。
「初めて板バネのスポーツ用義足を履いた時は、昔の“走る実感”が戻ってきたように感じました。」と水谷さん。そこから半年ほどトレーニングを重ね、全力疾走ができるようになったそうです。

 水谷さんには会場で、スポーツ用の義足を使った走りを実演いただきました。あっという間に生活用からスポーツ用の義足に履き替え、会場内の通路を想像以上のスピードで疾走。そのまま会場の壁を突き抜けてしまうのではないかと思われる力強い走りを間近に見た参加者からは、感嘆の声とともに拍手が湧き起こりました。

 ここで臼井さんが「水谷さんは何気なくやっていますが、これは膝周りの筋力があるからできるんです。初心者はなかなかうまくいきません」と、解説。その上で「たとえば30年後には、日常生活も全力疾走も、すべて一つの義足で対応できるようになるかもしれない」と、未来の可能性を語ってくださいました。

駅と鉄道の設備に期待すること

 ここからは臼井さんと、義足ユーザーのお二人に、駅や鉄道を利用する際に感じることについて、忌憚のない意見を伺いました。
関西出身の須川さんからは、「大阪の鉄道車両は優先席のカラーリングが目立つのでわかりやすくていい」と、アーティストならではの意見をいただきました。
水谷さんは、「駅のエスカレーターはなぜ上りばかりなのでしょう」と疑問を提起。「誤って踏み外すと一番下まで落ちてしまうから、本当は下りの方が怖いんです。できれば下りエスカレーターを優先して設置してほしい」という思いを語りました。ただ全体としては、エスカレーターや洋式トイレを備えた駅が多くなっているので、「車椅子を必要とする人でも外出しやすくなった」と評価してくださいます。

 また、臼井さんは「これまでアテネとロンドンで地下鉄に乗ったが、ロンドンやヨーロッパの方は車いすや足の悪い方に対して反応が早く、反射的にすぐに席を立って、ちゃんと声をかけます。それに比べると日本人は、考えてから動いている。以前よりは席を譲る人が増えてきたと思うけれども、スマートフォンなど個人の時間に没頭していて、なかなか気づけない。」と世界と日本との意識の差を語ります。
また「やはり安全がまず第一に重要であり、次にサービス。そのサービスのなかで、より様々な方にどこまで寄り添うことができるかが大切な時代がやってくる」とお話しいただきました。

 参加者からは「地方駅の中には、設備や係員の配置が十分でない駅もたくさんあります。そうした駅で不便を感じた経験があれば、ご意見をお願いします」と質問がありました。
須川さんは「最近は田舎の駅でもエレベーターが設置されるようになったので、とても助かっています。でも、設備もなく係員さんもいない駅に、それと知らずに降りてしまったらどうするんだろう、と思ったことはあります」とのこと。臼井さんからは、「地方だと、自分でボタンを押すことによって車両のドアの開閉をするものがありますが、車いすの人にとってはぎりぎり届く高さのように思います」とお話いただきました。
お二人の意見を受けて、社員同士の連携とコミュニケーションの重要性と、普段からの「声かけ・サポート」の大切さを改めて考えるきっかけとなりました。

 3名の方のお話を踏まえ、個性がそれぞれ輝く共生社会の実現に向けて、私たちができることについて考え続け、行動につなげていきたいと思います。

 JR東日本は、東京2020オフィシャル旅客鉄道輸送サービスパートナーとして、大会への出場を目指すアスリートたちを応援しています。
 今後も選手やサポーター、ボランティア、観戦者の皆さまを安全・安心に競技会場までお運びし、スムーズにご利用いただくための情報や、快適にご利用いただくためのサービスを提供することで、東京2020オリンピック・パラリンピックへの運営支援を行なっていきます。

臼井二美男(うすいふみお)
1955年群馬県生まれ。28歳から義肢装具士として義足製作に取り組む。89年、通常の義足に加え、スポーツ義足の製作を開始。91年、切断障がい者を対象とした陸上クラブ「ヘルス・エンジェルス」(現・スタートラインTOKYO)を設立、多くのパラリンピアンを輩出している。義足を必要としている人のために日々研究・開発・制作に尽力している。

特集

特集2020/03/27

東京2020パラリンピック日本代表内定のパラ水泳・木村敬一選手の講演会を開催いたしました!

2020-03 27

東京2020パラリンピック日本代表内定のパラ水泳・木村敬一選手の講演会を開催いたしました!

 今回は、ロンドン2012パラリンピック、リオデジャネイロ2016パラリンピックメダリストで、東京ガス株式会社に所属するパラ水泳の木村敬一選手に、JR東日本社員に向けて講演会を行っていただきました。講演に先立ち、東京ガスの東京2020オリンピック・パラリンピック推進部長である八尾祐美子さんにもお話をうかがいました。

東京ガスが目指す
東京2020大会後の未来

 2015年より東京2020大会のオフィシャルパートナー(ガス・ガス公共サービス)である東京ガスでは、東京2020大会を迎えるにあたり、「大会運営への支援・貢献」と「共生社会実現に向けた機運醸成」という2つの柱を掲げ、さまざまな活動を行っています。「大会運営の支援・貢献」では、安全安心な大会の成功を目指したエネルギー面での先進的な取り組みとして、大会会場のひとつである武蔵野の森総合スポーツプラザへ導入している、空調システムにガスを供給しております。「共生社会実現に向けた機運醸成」では、パラリンピックスポーツの観戦応援(2018年度のべ約1600人の社員が参加)や、東京ガスや関係会社に勤めるアスリートによるパラリンピックスポーツの体験会実施といったパラリンピックスポーツの支援に加え、片手でも楽しく簡単にできる料理方法の提案(「片手でクッキング」)、車いす利用社員のガス工事現場同行による作業員への啓発機会提供など、多岐に渡る取組みを行っています。

パラリンピックスポーツの支援を通して得られること

 八尾さんは、パラリンピックスポーツの支援を通して得られることは大きいとも話してくださいました。
「パラリンピックスポーツ大会の会場では、その種目に応じさまざまな障がいを持つ方を目にすることができます。パラリンピックスポーツを体験、観戦することで、障がいが身近な存在になります。そしてごく自然に認識し、配慮できるようになるのです」
 現在、日本は超高齢化社会、外国人増加によるグローバル化、加齢とともに身体が不自由になる加齢障がい者の増加などの課題に直面しつつあります。

多様な人々への自然な配慮ができるようになれば、それぞれの立場に立って本当に必要とされるサービスを考えることができます。この多様化した現代社会において、社会課題の解決は私たち企業人にとっての共通の課題であり、またビジネスチャンスでもあるはずです。

木村選手と水泳の出会い、
パラリンピック体験談
~“自分がどうしたいか”が大切~

 続いて、いよいよ木村敬一選手の登場です。
「こんにちは!」とさわやかなあいさつから始まり、まず聞かせてくださったのは、水泳との出会いとパラリンピックの体験談です。木村選手が水泳を始めたのは10歳の時です。滋賀県で生まれた木村選手は、生まれつき全盲でありながら体を動かすことが好きで、安全に思いきり体を動かせるようにとスイミングスクールに通い始めました。中学校は、「大勢の中でさまざまなことを学んでほしい」とのご両親の考えに背中を押され、東京都内の視覚特別支援学校に入学。寮生活をしながら水泳部で練習に励み、中学3年生の時、19歳以下の視覚障がい者による世界大会で日本代表に選ばれるほどの実力に。それが、パラリンピックという舞台を意識するきっかけになりました。高校時代は水泳部で一人黙々と練習に打ち込む日々を過ごし、2008年、高校3年生で初めてのパラリンピック出場を手にしました。

 大学入学後は水泳普及研究会に所属し、健常者の仲間と練習に励みました。そこで知ったのは、「集団で練習するすばらしさ」。隣で頑張る仲間の存在がいかに人を動かすか、を思い知らされたそうです。2012年、大学4年生の時にロンドン2012パラリンピックに出場し、念願のメダルを獲得することができました。
「ここまでが多分、自分のアスリートとしての折り返し地点かなと思います」と木村選手。
東京ガスに入社し、次なる目標は金メダル。リオデジャネイロ2016パラリンピックに向けて走り出した木村選手は、大学時代の水泳の恩師(野口智博先生)にコーチング指導を受けるとともに、外国人選手に負けない肉体づくりを目指して食生活も改善。朝練習後からエネルギーをしっかり確保できる食事を1日5食食べ続けたそうです。
 そうして臨んだリオデジャネイロ2016パラリンピック。三種目が終了し、銀・銅メダルは獲得できましたが、目標としていた金メダルには届きません。そのうえ、ハードなスケジュールがたたり疲労はピークに。見かねたコーチから、四種目の決勝は欠場も提案されたそうです。しかし木村選手は悩みに悩んだ末、「泳ごう」と決断。そのとき自身ができる限りの準備を行い予選7位から順位を上げ3位に。4枚目のメダルを獲得できました。
「この5日間は人生で最も苦しい時間でしたが、泳ぎきった自分に誇りを持ってもいいかなと今は思えます。それに最終的に人間って、“自分がどうしたいか”だけで動けるんだと知ることができたのは、リオでの収穫でした」
 私たちの知らない厳しい舞台の裏側まで教えていただくことができました。

パラ水泳の特徴と楽しみ方

 次に聞かせてくださったのは、パラ水泳の特徴についてです。ルールは基本的に水泳競技と同じですが、パラ水泳は障がいの程度に応じてクラスが分かれ、同レベルの障がいの選手同士が競い合うのが原則です。視覚障がいでは、全盲の木村選手がいる最重度のクラスをはじめ、3段階に分かれます。また、一般の水泳と比べて泳法に違いはありませんが、大きく2点の違いがあるそうです。1点は、壁の接近を知らせる「タッピング」。特製の棒を使いプールサイドから選手の体を軽く叩くのだそうで、会場では実際に使用しているタッピングバーが回されました。

肩幅より長いサイズで、棒先の丸くて大きなスポンジのような素材はビート板を切り抜いたもの、柄は釣り竿を利用しています。
 「水泳においてターンとタッチはタイムや順位を左右する重要な局面になります。パラリンピック水泳をご覧になる時は、タッピングのスキルや選手とタッパーとの呼吸にも注目すると面白いと思います」
 もう1点はゴーグルです。不正防止のため、レンズを黒く塗りつぶし光が入らないよう加工し、目隠しをして泳ぐことが義務付けられています。

 「日本の選手はメーカーに特注したゴーグルを使っていますが、海外ではレンズをただペンキで塗り潰すだけ、という国もあります。タッピングの棒も、モップの柄とテニスボールの組み合わせだったりするので、日本の細やかなこだわりはすばらしいと感じます」
 パラ水泳、特に視覚障がい者のレースでは、一部のルールや用具など一般の水泳と多少の違いはありますが、基本的なルールは同じで誰が一番速いかを決めるだけなので、レース自体楽しく見ていただけるのではと木村選手はお話しくださいました。

ボルチモアを拠点として学んだ「やるべきことをすべてやる大切さ」

 木村選手は、2018年春からアメリカのボルチモアに練習拠点を移しています。目標としていた金メダルに届かなかったリオのパラリンピックを終え、次の4年間を同じ熱量を持って過ごすため、大きな刺激を取り入れて自分を磨こうと考えての決断でした。新たな地では語学学校に通い苦手な英語の習得にも力を入れているそうです。現地の大会にも出場し、アメリカ人のタフさも目の当たりにしました。
「試合中の食事は、日本人選手ならレースによる内臓疲労を考慮して、消化のいいうどんかそばを選ぶことが多いですが、彼らは『敬一、今日はファストフードのハンバーガーでいいか?』『今日は気分を変えてピザを食べに行こう』って言うんです」
 木村選手はユーモラスな表現で会場を盛り上げます。また、日本人が練習や試合の前後に当然のようにじっくりと行うウォーミングアップやクールダウンも、彼らはほとんどしないといいます。
「それは瞬時に力が発揮できる体だから。私が真似をしてもケガをするので、今は日本にいた時よりも体のケアを行うようになりました。ケアやテクニックなど、日本人は勤勉だからやるのではなく、勤勉になってできることを全てこなさなければ世界で戦うことができないのだとアメリカで学ぶことができました」

東京2020大会への想い

 東京2020パラリンピックについて思うことも聞かせてくださいました。東京2020大会の開催決定を機に、試合では多くの歓声に包まれるようになり、選手として幸せを感じるといいます。
「本番ではこれ以上の大歓声の中で泳げると思うと、今から楽しみでしょうがないです」
しかし、オリンピック、パラリンピックの合同イベントが増え、肩を並べて表現される機会が増えても、木村選手はオリンピック選手への尊敬の念を持ち続けています。
「小さい頃から激しい戦いを勝ち抜いた天才たちが出場できる場がオリンピックだと思っています。一方、パラリンピックの選手層はまだまだ決して厚くありません。僕たちパラリンピック選手は、オリンピック選手に対するリスペクトを忘れてはいけないと思っています」
東京2020大会への盛り上がりが加速する波の中で、最高の競技パフォーマンスが求められていると日に日に実感しているという木村選手。その期待に応えてくれる瞬間を、ぜひとも会場に足を運び、大歓声の応援とともにしっかりと目に焼きつけたいものです。

視覚障がい者の一人として、鉄道へのご意見

 視覚障がい者の一人として鉄道へのご意見も聞かせてくださいました。
1つめは、視覚障がい者の転落事故のこと。誰が悪いということよりも、事故をどのように防ぐかを考えることが大事だとしたうえで、昨今はホームドアの増加はもちろん、声をかけられる機会も増えて、ホームの安全性の高まりを実感しているそうです。
 2つめは、視覚障がい者が駅で一番困ることについて。それはトイレなのだそうです。
トイレは駅構内で見つけにくく、探している時は切羽詰まった状況。ようやくトイレを見つけ向かおうとした瞬間、警備の方が声をかけてくださり、エレベーターを案内してくれた、こう聞くと特に疑問は感じませんが、問題はその状況だと木村選手は続けます。
「エレベーターを待つよりも歩くほうが、気が紛れてマシな場合もありますよね。何が言いたいかというと、人はそれぞれ希望が違いますし、こういうやり方をすれば万事解決という方法はないと思うのです。視覚障がい者にとって何にも言わずに引っ張っていかれるのは一番怖いことなので、まずは希望することに耳を傾けてもらえたらうれしいです」
ホーム上よりもコンコース、それもターミナル駅などの大きくて複雑な駅ほど困ることが多いことも教えてくださいました。また、車内で優先席を譲られることも多いという木村選手は、「正直、優先席を譲っていただいても自分が座るべきか考えてしまいます。優先席は本来どのような人が座るべきなのか、ということを改めて考えて、障がい者だからと一括りにしないほうがいいのかもしれません」
 一人ひとり、求めることは異なります。それは障がいがある・なしにかかわらず、あらゆる人に共通すること。前出の八尾さんからの「さまざまなお客さまの立場に立って、それぞれのニーズに応える」というお話にも通じるのではないでしょうか。

盛り上がった、木村選手への質問タイム

 最後は、木村選手への質問タイムが設けられ、さまざまな質問が飛び出しました。「アスリートにとって企業スポーツとはどうあるべきか?」との問いには、「どんなスポーツでも、人気があってファンも多ければ自然と応援してくれるようになり、企業もそれについてきてくれると思う。だから、まずは僕ら選手が強くなり、社会や企業に応援してもらえるようなパフォーマンスを見せることが大事なのでは」と企業、そして日本を代表する選手として回答をいただきました。

また、「海外のバリアフリーで印象的だったことは?」との問いには、アメリカのバスにはリフトが常設され、車いす利用者が常に何人も乗車していることを挙げ、「その乗降に時間はかかるけれど日本のように時間厳守ではないから成立する。でも公共交通機関としてはどうなのかを考えさせられた」と教えてくださいました。

 木村選手が投げかける具体的な例とユニークなお話の数々は、さまざまな気づきを与えてくださり、共生社会の実現のために私たちが今すぐできることは何なのかを深く考えさせてくれる貴重な機会となりました。

JR東日本は、東京2020オフィシャル旅客鉄道輸送サービスパートナーとして、大会への出場を目指すアスリートたちを応援しています。

 今後も選手やサポーター、ボランティア、観戦者の皆さまを安全・安心に競技会場までお運びし、スムーズにご利用いただくための情報や、快適にご利用いただくためのサービスを提供することで、東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会への運営支援を行っていきます。

木村敬一(きむらけいいち)
1990年9月11日生まれ。滋賀県出身。東京ガスに所属。2歳の時に病気で視力を失い、10歳から水泳を始める。高校3年生で北京2008パラリンピックに出場し、大学4年生ではロンドン2012パラリンピックにて銀メダル1つ、銅メダル1つを獲得。リオデジャネイロ2016パラリンピックでは銀メダル2つ、銅メダル2つを獲得。2019年、ロンドンでのパラ水泳世界選手権の100mバタフライで優勝し、東京2020パラリンピック日本代表に内定。2018年4月からアメリカに拠点を移し練習に励む。

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