海の道・津軽海峡を
めぐる交流史
青函連絡船就航への軌跡〜
縄文以前から人々が行き交い「しょっぱい川」と呼ばれた津軽海峡は、北への玄関口でもあった。大陸や蝦夷地の文化が交差し、アイヌを巻き込みながら経済発展の大動脈となり、北方警備の最前線へ。近世を軸に変貌した海の道の歴史に迫る。
写真/『松前屏風』(松前町郷土資料館蔵)
講師/瀧本 壽史氏
(弘前大学特任教授)

北方世界に開かれた海峡
津軽海峡に突き出た津軽半島や下北半島には、本州の北の外れ、最果てのイメージが今もつきまとう。だが、原始より北方地域とのさまざまな交易品が、この狭い海峡を越えて本州にもたらされていた。
函館を中心として同心円を描いてみると、京都までの距離の中に樺太・南千島・沿海州が、博多までの距離の中に樺太の大半とハバロフスクまでが入る。まさにこれが、津軽海峡を北の玄関口とした交易圏である。津軽海峡は北方世界に開かれ、重要な役割を果たしてきた海域なのである。
北からの交易品には、毛皮、鷲鷹の羽、海産物、木材などがあるが、なかでも近世になって奢侈品として珍重されたものに蝦夷錦がある。元は中国の官衣であり、アムール川下流域の諸民族やアイヌを仲介者とするサンタン交易によりもたらされていた。現在、青森県内に遺された蝦夷錦の数は、その交易の担い手であったアイヌの地、北海道に次ぐものの、本州の他の地域と比べて圧倒的に多い。蝦夷錦を一例として、海峡地域の北方交易との関わりを考察する。
写真/1808年(文化5年)、米沢藩の絵図方が描いた「南部津軽松前浜通絵図」(青森県立郷土館蔵)。海峡の潮流における難所が記載されている

大動脈時代の幕開けと
海峡地域の形成
本州と蝦夷地を結ぶ交易は、近世に入るとその物量が激増する。背景として、蝦夷地に置かれた松前藩に、蝦夷地交易の独占権が与えられたことが大きい。アイヌはそれまでの自由な交易を次第に制限され、松前藩の管理下に置かれた。
対して青森側の弘前藩では、九浦制度(6つの公的な湊と3つの関所)が整えられ、各地から渡航してくる船を受け入れた。さらに北前船の台頭により、蝦夷地との船の往来が盛んになっていく。津軽海峡は、こうして物流の大動脈へと成長した。
一方、海峡の半島部には、近世以前から定住していたアイヌがいた。本州アイヌと呼ばれるこの人々は、松前藩の成立により蝦夷地のアイヌと分断された。しかし、和人とアイヌの居住地が厳然と区分された蝦夷地とは異なり、本州アイヌは和人と混住していた。やがて蝦夷地直轄化を背景に同化政策がとられ、本州アイヌの集落は消滅するが、その生活文化の一部は地域に融和して受け継がれた。アイヌの伝統的な衣服であり、北東北では農林漁業者らの作業着として利用されたアットゥシをもとに海峡地域の様相を見ていく。
写真/樹皮を織って布に仕立てたアットゥシは、蝦夷地からもたらされた(深浦町歴史民俗資料館・美術館蔵)

「北の黒船」来航の
脅威と海峡
江戸幕府は弘前藩に「北狄(ほくてき)の押さえ」という役割を与え、盛岡藩、松前藩とともに蝦夷地のアイヌの動向を監視させていた。だが、江戸時代の後期、対象となる「北狄」が変わった。海峡が活況に沸く最中、幕府を震撼させる出来事が起こる。
蝦夷地にロシア船が出没し、日本に通商を求めたのだ。この「北の黒船」の脅威から北の守りを固めるため、幕府は弘前・盛岡・秋田藩などに蝦夷地警備を命ずる。さらに幕府は、津軽海峡を挟み、要所に砲台も設置した。物流の最前線であった津軽海峡に、国防の最前線という新たな役割が加えられたのである。
近世において津軽海峡を通じて展開された「人・物・情報の交流」は、経済・文化あるいは地政学的にも道南と津軽・下北の両地域を強く結びつけ、ひとつの「海峡地域」を形成していったと考えられる。
明治の世、全国に鉄道網が敷設されると、人員・物資の輸送手段の主力は船から鉄道へと移る。そして鉄道車両を運ぶ青函連絡船が誕生する。近世から近代へ、津軽海峡が担った役割と海峡地域の変遷をたどる。
写真/1848年(嘉永元年)、三厩に現れ上陸もしたアメリカ船(左)と船頭(右)の図(青森県立郷土館蔵)

講師:瀧本 壽史氏
1955年、青森県生まれ。弘前大学特任教授。早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了。弘前高校校長・弘前大学教職大学院教授を経て現職。専門は日本近世史。津軽海峡を挟んだ北奥地域と蝦夷地との関係性が主要テーマ。共編著に『教科書と一緒に読む 海峡地域の歴史-津軽・下北・道南-』(弘前大学出版会、2025年)。青森県史のほか県内自治体史編さんにも参画。


