JR東日本野球部について

JR東日本野球部沿革

年度 歴代監督 都市
対抗戦
日本
選手権
JABA大会 ドラフト選手 応援団 記事
平成29年 堀井 哲也 ベスト8 1回戦 田嶋大樹(オリックス) 1st 優秀賞
平成28年 1回戦 進藤拓也(横浜DeNA)
平成27年 1回戦 2回戦 北海道大会優勝 関谷亮太(千葉ロッテ)
東條大樹(千葉ロッテ)
石岡諒太(中日)
1st トップ賞
平成26年 ベスト8 ベスト8 日立市長杯優勝
岡山大会準優勝
飯田哲矢(広島)
坂寄晴一(オリックス)
西野真弘(オリックス)
1st 優秀賞
敢闘賞
平成25年 準優勝 2回戦 四国大会優勝
岡山大会優勝
吉田一将(オリックス)
阿知羅拓馬(中日)
田中広輔(広島)
最優秀賞
平成24年 準優勝 準優勝 北海道大会優勝 戸田亮(オリックス) 1st トップ賞
最優秀賞
平成23年 優勝 十亀剣(西武)
縞田拓弥(オリックス)
川端崇義(オリックス)
平成22年 2回戦 前期敢闘賞
平成21年 1回戦 静岡大会優勝 柏野球場・合宿所完成
平成20年 2回戦 ベスト8 高山大会優勝
東京スポニチ大会準優勝
小杉陽太(横浜) 特別賞
平成19年 準優勝 ベスト8 京都大会優勝 小林太志(横浜)
中尾敏浩(ヤクルト)
最優秀賞
前期優秀賞
平成18年 ベスト4 富山大会優勝 寺内崇幸(巨人)
鈴木誠(巨人)
最優秀賞
前期優秀賞
平成17年 2回戦 東京スポニチ大会優勝 松井光介(ヤクルト) 前期敢闘賞
平成16年 中野 真一 工藤隆人(日本ハム)
小山良男(中日)
平成15年 2回戦 優秀賞
後期敢闘賞
平成14年 九州大会優勝
平成13年 1回戦 1回戦
(初出場)
東京スポニチ大会優勝 萩原多賀彦(ヤクルト)
五十嵐貴章(ヤクルト)
石川雅実(巨人)
後期トップ賞
平成12年 赤星憲広(阪神)
平成11年 1回戦 後期トップ賞
平成10年 柏崎 忠 九州大会優勝
平成9年
平成8年 小松 利博 高砂大会優勝
東京スポニチ大会準優勝
平成7年
平成6年
平成5年
平成4年
平成3年 新習志野野球場・合宿所完成
平成2年 大野 弘 ベスト8
小野賞
最優秀賞
後期トップ賞
平成元年
昭和63年
昭和62年 JR東日本野球部発足

国鉄野球の歴史

戦前編

日本の野球の起源は、明治6年(1873年)に開成校(東大の前身)で、米人教師によって野球が紹介された。

それから4年後の明治10年(1877年)アメリカから帰国した鉄道技師平岡 煕が、日本ではじめての野球チームをつくった。

そのチーム名は「新橋クラブ」、ニックネームは「アスレチックス」とした。チームのメンバーは新橋鉄道局の職員がほとんどであった。そして明治15年には東京・農学校と試合したが、これが日本最初の対抗試合であったと、ある野球史誌に書かれている。とにかくユニホームを着て、チームをつくり試合したのは、この「新橋アスレチック」がはじめてである。

明治5年(1872年)日本に鉄道が開通してから僅かに6,7年しか経ていない時期に、鉄道の中で早くも野球チームが生まれたことを思うと、鉄道と野球の結びつきの深さが感ぜられる。

しかし、このチームは明治20年ごろ、平岡が新橋鉄道局を辞任し渋沢栄一と共同で汽車製造の平岡工場を創設すると同時に解散した。

芥田武夫は「日本野球小史」(半世紀を迎えた神宮球場)の中で、「...それにしても、野球の草分け時代に、大きな役割を果たしたのが国鉄のチームであることが、なにか不思議に思えてならない。ということは、そののち40年も経た後に、社会人野球(実業団野球)に鉄道局チームが誕生し、鉄道大会が行われ、さらに昭和2年、都市対抗野球大会が開催されるや、鉄道チームがその主役をつとめ、またプロ野球にも参加しているなど、なにか因縁めいたものが感じられるからである」と書いている。

明治から大正時代に11チームもの鉄道チームが誕生した背景は何であったろうか。東鉄野球部の創立趣旨書(大正9年)を見ると「鉄道界にも野球をとり入れて、職員の健康増進と精神訓練のため、又職場の明朗化をはかり情操を豊にする目的」とある。各チームとも同様な考え方でつくられたものと推測するが、もうひとつ当時の時代背景というのも見逃すことはできない。

それは第一次世界大戦後の好景気の影響であろう。

この時期、鉄道のほかに一般企業の会社、さらに県庁、市役所まで続々と野球チームを持ち、大正9年戸山ヶ原球場で行われた東京実業団大会には36チームも参加するほでの盛況であり、これが全国鉄大会開催の一つの布石になったともいえる。

大正10年10月、国鉄は開業50周年を迎え、待望の第1回全国鉄大会は、その記念行事として開催された。初の優勝は、門鉄であった。

以後、全国鉄大会は定着し、年々隆盛を極めて行き、第3回(大正12年)には鉄道省本省もチームを結成し、初出場し見事全国制覇を遂げた。(本省の優勝はこの1回だけであった。)

都市対抗の東京代表には、第1回から6大学OBのスタープレイヤーを網羅している東京クラブが連続出場していた。東京の第一次予選の勝者が、この東京クラブと代表の座を争うわけだが、東鉄はいつも惜しいところで出場を失っていた。

昭和9年、それまで大鉄の監督であった藤本定義が東鉄に転勤してきたのを機に、直ちに監督に迎えた。その折も折、東京日日新聞(現毎日新聞)から東鉄に、予選地区を東京から関東地区に移しては、という話があった。このため東鉄は国鉄大宮工場を本拠にして東鉄大宮とチーム名を改め、関東予選を勝ち抜いて第8回大会に、初めて神宮の土を踏むことになった。

戦績は、2回戦、大連に0対1で惜しくも敗れたが、東鉄大宮の南安男投手(松本商業出身)は、のち東鉄に移籍、都市対抗30回連続出場という輝かしい記録を残した。

東鉄、巨人と2勝2敗

日本で最初に誕生したプロ野球チームはいうまでもなく「読売巨人軍」である。最初は「大日本東京軍」という名称でアメリカへ渡った。

本場で技術を身につけようというわけである。

昭和10年2月から約5ヶ月の間にアメリカ、カナダなどで110試合を行い、75勝34敗1引分けの好成績を収めた。渡米中に「東京ジャイアンツ」というチーム名がつけられた。帰国すると「ジャイアンツ」の日本名「巨人軍」として実業団チームと試合をつづけ、全国を回って目ぼしいチームと対戦したが連戦連勝、プロ球団の実力をいかんなく発揮していた。

ところが、その「巨人軍」に1度とならず2度までも苦杯をなめさせたチームがあった。

藤本定義監督ひきいるところの東鉄である。

第1回戦は巨人がホームグランドにしていた静岡草薙球場で行われたが、このときは東鉄が0対1で敗れた。第2回戦は東鉄の本拠地大宮球場で、超満員の観衆を集めて行われ、6対4で勝ち1勝1敗のタイとした。

このあと巨人軍から、第3戦で勝負を決めようと挑戦され早大戸塚球場でその3回戦を行うことになった。東鉄は打線が爆発し9対4で快勝した。なお、このあと4度目の試合を挑まれたが、4回戦目は0対2で敗れ、2勝2敗の5分の星に終わった。

全国鉄大会、都市対抗ともに戦争のため中断

昭和6年に勃発した満州事変を契機に日本は軍国主義的色彩が強まり、昭和12年7月の芦溝橋事件で、中国と全面的戦争に突入することになる。

第17回全国鉄大会は、この日中事変勃発の重苦しい中で神宮球場で行われた。第11回都市対抗には、4チームの国鉄が出場したが、翌12年の13回、13年の14回と2回とも国鉄からの出場チームの名は見当たらないようになった。なお、都市対抗は昭和13年(14回)から開場した後楽園球場に移され、この年の全国鉄大会(18回)も神宮から早大戸塚球場に移って開かれた。

このあと全国鉄大会は、多くの選手が兵役に服し、各チームとも戦力は著しく低下したものの、14、15年と2年連続して開催し、国鉄野球の健在ぶりを社会人球界に示していた。

都市対抗は昭和16年(15回)予選で15代表が決定したものの、戦局緊迫のため中止となった。

しかし、翌17年(16回)は太平洋戦争の緒戦で日本が連戦連勝と破竹の進撃を続けていた時期で、当局も「都市対抗は国民精神振興の意義がある」として、再開を認めた。そしてこの年には大宮から東京へ戻った東鉄が6年ぶりに出場したのをはじめ、他2つの国鉄チームが後楽園の桧舞台を踏んだ。

こうして都市対抗は、この昭和17年の16回大会を最後に、また全国鉄大会も昭和15年の20回大会を最後に、太平洋戦争のため中断、戦前の両大会は幕を閉じた。

戦後編

昭和20年8月15日、終戦1年後の昭和21年、国民は食料も十分でない窮乏をつづけている時期に、さまざまな野球大会は復活した。全国鉄大会は6年ぶり、都市対抗は4年ぶりである。敗戦からわずか1年間で復活したということは、野球人の情熱と、娯楽のない時代に明日への希望と喜びを求めていたファンの願いであったわけである。

全国鉄大会は、はじめて会場を大阪に移し西宮球場で行われ、東鉄が優勝した。

東鉄は戦後初の第17回都市対抗に出場した。その際、飯田徳治、朝井昇両内野手は都市対抗での活躍が認められ、プロ野球南海ホークスにスカウトされ、飯田選手は日本プロ球界屈指の名一塁手として後世名声を馳せることになる。

昭和24年、国鉄の機構改正で、それまでの9鉄道局が、一挙に27鉄道管理局に増えると同時に、ほとんどの局が硬式野球部を持つようになり、国鉄チームは30近い数に膨れあがった。

この機構改正のとき、本社厚生労働局厚生課にレクリエーション係が設置された。長い国鉄の歴史の中で、はじめて外来語で呼ばれる係が組織の中にできたとうことで、大きな話題を呼んだものである。

この係の業務内容は、それまでの労働文化と称されたものの延長ともいえるが、新しい時代に即応した体育文化、精神文化を育成して、業務能率の向上を図るというのが、その目的である。当時の本社通達の「レク推進基本要項」には「職員の士気を高め、心身の健康を増進し、すこやかな楽しい勤労生活を営むことにより勤労能率を維持増進すること」と記されている。

昭和39年10月、新幹線が開業し国鉄の歴史に輝かしい1ページを書き加えたとはいえ、この頃から自動車、それにともなう高速道路の伸長、航空機など、他の交通機関の急速な発展によって、国鉄の経営は年を追うごとに苦しくなってきた。その厳しい現実を反映してか、野球部の休、廃部が相次ぎ、国鉄野球史上、もっとも苦しい時期を迎えるに至った。

昭和50年から国鉄総裁杯争奪硬式野球大会が発足した。出場は4チームで、その出場権は1回目が前年度の全国鉄大会の優勝、準優勝と準決勝で優勝した相手に敗れた3位チーム、それに開催地元の4チームとし、第2回からは前年の全国鉄大会の決勝進出2チーム、前年の総裁杯争奪優勝チームと、開催地元チームが出場する権利が与えられるようになった。国鉄総裁杯においては、東鉄が第4回以降3年連続優勝を果たし、古豪の面目を保った。

東鉄野球部の歴史

創立から第二次大戦まで

大正9年、鉄道界にも野球を取り入れて、職員の健康増進と精神訓練のため、また職場の明朗化をはかり、情操を豊にする目的で、大道良太東鉄局長をはじめ、吉田浩庶務課長、鈴清信文書掛長、新井堯爾運輸課庶務掛長等が中心となって東鉄野球部の創部につとめた。そのとき初代主将に松尾富三郎が就任した。最初のメンバーは10名であった。

翌10年第1回全国鉄大会が開かれ、チーム強化のため、早乙女投手、二宮内野手らを入部させたが、1回戦で札鉄に12対1の大差で敗れた。

大正11年、主将が大町(早大出)となって更に陣容を整えたが、全国鉄大会では再び1回戦で札鉄と対戦、延長14回の末2対1で連敗を喫した。

大正12年、九州地区で一流投手として活躍していた春日投手(中島鉱業)や捕手の吉岡、小橋口らが入り大いに期待されたものの、第3回全国鉄大会では門鉄と対戦、試合中の判定をめぐってトラブルが起こり、東鉄は試合を放棄した。

全国鉄大会

昭和2年から球場が田町にできた。専用球場とまではいかず、本省と共同で使用していた。この頃局管内の運輸事務所チームが活躍しており、中でも宇都宮の毛塚投手、太田、馬場両捕手、水戸の富岡投手らは優秀選手として中央球界でも定評があった。そしてこれらの選手を補強して第7回の全国鉄大会に出場、念願の初優勝を実現した。

この優勝によって八幡製鉄、函館大洋クラブなどのチームから招待され、各地で転戦して東鉄の名を高め、前記の両チームとは以後春秋2回定期戦を持つことになった。

第8回(昭和3年)から第13回(昭和8年)までの全国鉄大会は、名鉄、大鉄が、隔年ごとに優勝していたが、第11回(昭和6年)には伏兵仙鉄に倒されるという番狂わせもあった。東鉄も門鉄とともに毎年優勝候補に推されていながら、長蛇を逸していたことは惜しい限りである。

藤本定義監督に就任

電車区を拡張するため、田町球場がその敷地となり昭和7年から球場を鶴見に移し、川崎コロンビアと共用で練習を行った。

東鉄もこの年から都市対抗東京予選に出場することになったため、飛田穂州氏をコーチに招き、スパルタ式の猛練習で鍛えられ、第1次予選突破に闘志を燃やした。

東京地区には東京ガス、石川島、明電舎、簡易保険局などがあったが、東鉄は7、8年と連続1次予選を勝ち抜いて第2次へ進出、東京クラブとチャレンジゲームを行った。

東京クラブは全盛期の六大学野球のスタープレーヤーを網羅した強豪だが、2年とも1勝1敗に持ち込んだものの3回戦で敗れ出場権を失っていた。

このため野球好きの幹部が、なお一層の陣容強化と図っている折も折、大鉄野球部監督の藤本定義氏(早大出)が東京に転勤の希望があったものと聞き、昭和8年の秋監督として迎え、同時に有力選手獲得にも乗り出した。

都市対抗初出場

この頃、都市対抗で関東地区代表があまりにも弱いということで、主催の東京日日新聞社(現毎日新聞社)から東鉄に、関東地区予選から出場してほしいとの要請を受けた。このため幹部に了解をとり、東鉄大宮として出場することになった。

昭和9年、新設の大宮球場を専用に練習を開始した。藤本監督の練習は厳しく、土曜、日曜を返上しての試合続きで選手たちは悲鳴をあげていた。中でも大学出の選手は、在学中でもこんな物凄い練習はしたことがないと、こぼしていた程であった。

第14回全国鉄大会は神宮球場で開催された。優勝候補は名鉄、門鉄であったが、両チームとも次々と敗退して決勝戦は東鉄と広鉄の争いになり、東鉄が7年ぶり2度目の優勝を飾った。続いて都市対抗関東地区予選が大宮球場で開催された。参加は宇都宮運輸事務所、東鉄大宮など8チームであった。ところが、予選から東鉄が出場するとあってほとんどのチームが不参加となり、結局八王子実業団と決勝戦を行うことになった。

東鉄先攻で開始したゲームは2回表まで東鉄が6対0とリードした2回裏八王子攻撃の際、一塁手と一塁走者が衝突した。八王子の応援団は、このときとばかりグランドになだれ込み、試合は一時中断となり険悪な様相を呈し、警官が出動しその場は収まったが、とても試合を続けられる状態ではなかった。このため、警官立会いで八王子の監督と藤本東鉄監督、南主将らが協議した結果、ノーゲームとして翌日改めて再試合ということになった。ところがその翌日、八王子は試合開始時刻まで姿を見せなかったため、放棄試合が成立、東鉄は都市対抗に初の出場権を得ることになった。東鉄球史に例を見ないトラブルとして、八王子事件と語り伝えられている。

第8回(昭和9年)都市対抗に初めて駒を進めた東鉄大宮は、初出場ではあったが下馬評ではダークホースの存在として注目を集め、職員はもちろん地元大宮市民も応援団を組織してスタンドの一角から声援を送ってくれた。1回戦は仙鉄に圧勝し、2回戦は神宮球場に6万人の大観衆を集め、大連満クと対戦、惜しくも1対0で敗れはしたものの、過去3連覇の強豪を相手に健闘した東鉄大宮は、この大会を契機に社会人球界の注目を集めるようになった。

第9回都市対抗予選は前年と同じく関東から出場したが、相手チームがなく無条件で再び本大会に臨んだ。昨年の実績が認められ、一躍優勝候補にあげられたが、準決勝まで進み東京クラブと大熱戦の末、4対3で敗れはしたものの、この一戦はいまでも都市対抗大会史上の語り草に残る名勝負であった。