天文元年に弘信法印が、弘前市堀越城外萩野の地に建立したことが始まりとされている「金剛山 光明寺 最勝院」。慶長年間に弘前城下に津軽家に従い、弘前城下鬼門鎮護の聖域を創り上げ、別当として八幡宮、熊野宮を膝下に置き、津軽の神社を統括する総別当職を担いました。領内の民心の安定を願った弘前藩主より、全寺社の筆頭の座位を付与。近世の数百年間は、津軽家の御祈願所としてひたすらに祈祷を行ってきました。藩政期には城下鬼門鎮護において阿弥陀如来を本尊に権勢を振るいましたが、明治4年、神仏判然令に伴う廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の影響で、現在の地へと移ることを余儀なくされました。
境内には卯年にちなんだ石像や香炉などが配され、卯年の一代様として親しまれていることがうかがえます。ひときわ目を引くのは五重塔。戦乱の世において戦死した武将らを敵味方の隔てなく供養するため、津軽家の帰依(きえ)を受けて建立された鎮魂祠堂(ちんこんしどう)として伝わっています。二重から相輪突端まで立ち上がる心柱は継ぎ手のない見事な一本物の杉材ですが、建造物保護のために開帳されることは滅多にありません。また、青森県内最古の仁王像が近年話題に。令和5年の春まで行われた解体修復工事の中、運慶の流れを汲む仏師が承応2年に制作した寄木の木造立像であるという大発見がありました。