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天地人 直江兼続紀行 -越後・会津・米沢-

歴史概要 〜直江兼続を知る〜

直江兼続は樋口兼豊の長男として戦国時代の1560年に越後の坂戸城下で生まれた。越後の上杉謙信が武田信玄と信濃で川中島の戦いを繰り返し、東海では桶狭間の戦いにより織田信長が畿内への勢力を拡大していたまさに激動の時代。主君・上杉景勝に仕え、豊臣政権時代には上杉家執政として手腕をふるい、関が原の戦い後は上杉家存続のために奮闘した。上杉謙信を師と仰ぎ、兜に「愛」の文字を掲げ、領土拡大など「利」を求める戦国時代においてでも、民・義・故郷への「愛」を貫いた人物。

このページの情報は2009年2月に掲載された情報です。最新情報をお調べのうえ、お出かけください。

人物

  • 直江兼続(1560年-1619年)

直江兼続は樋口兼豊の長男として1560年に越後の坂戸城下で生まれた。幼名は与六といい、元服して樋口兼続を名乗った。その後、上杉景勝に従い春日山城に入り、御館の乱後、21歳の若さで家老に抜擢された。恩賞を巡るトラブルなどから直江信綱が殺害されると、上杉景勝の命で直江信綱の妻であったお船の方の婿養子となり、跡取りのない直江家を継いで直江兼続と名乗った。本能寺の変後、上杉景勝と豊臣秀吉との同盟締結など豊臣家との関係強化に努めた。豊臣秀吉の死後、徳川家康と対抗し、会津征伐・関ヶ原の戦いが起こると総大将として最上義光を攻めた。関ヶ原の戦い後は減封された米沢で治水事業など内政に力を注いだ。

  • 上杉景勝(1555年-1623年)

上杉景勝は長尾政景の子として生まれ、長尾政景の死後、上杉謙信の養子となった。1578年に上杉謙信が急死すると上杉景虎との跡目争いの御館の乱に勝利し、上杉家の家督を継いだ。織田軍の侵攻により国力は衰退するも本能寺の変の後、豊臣秀吉に謁見し、上杉景勝は豊臣家の大名となり、五大老となった。越後より会津120万石へ移封されたが、豊臣秀吉の死後、徳川家康と対立した。関ヶ原の戦い以降は、上杉景勝は徳川家康に謝罪の上、米沢30万石に減封された。米沢減封後は大坂冬の陣と翌年の大坂夏の陣で徳川方として活躍した。

  • 上杉謙信(1530年-1578年)

上杉謙信は戦国時代の越後(新潟県)で上杉家米沢藩の祖にあたる人物。越後の守護代を務めた長尾氏出身で初名は長尾景虎、のちに関東管領上杉憲政から上杉氏の家督と関東管領の職を譲られ、上杉政虎、上杉輝虎と名乗り、出家して上杉謙信と名乗った。越後の春日山を居城として武田信玄、北条氏康、織田信長、佐野昌綱らと合戦を繰り広げ、5回に及んだとされる武田信玄との川中島の合戦や、関東管領の名のもとに関東出兵を繰り返した。

年表

和暦 西暦 年齢 事柄
永禄3年 1560年 0 直江兼続(樋口兼続)が坂戸城(新潟県南魚沼市)の城主、長尾政景の家臣・樋口兼豊の嫡男として誕生する。上杉謙信は31歳、上杉景勝は6歳。幼少期、直江兼続と上杉景勝は雲洞庵で学び、「愛」の精神を育んだ。
永禄7年 1564年 4 長尾政景が死去すると上杉景勝は上杉謙信の養子となり春日山城(新潟県上越市)に移り住んだ。この頃、直江兼続(樋口兼続)も春日山城(新潟県上越市)に移り住んだとされている。春日山城では上杉謙信を師と仰ぎ、多くの「義」を学んだ。
天正6年 1578年 18 上杉謙信が急死すると、上杉景勝と上杉景虎の間に家督相続をめぐって御館の乱(新潟県上越市)が起きる。直江兼続(樋口兼続)は樋口兼豊と共に上杉景勝方に付いた。
天正9年 1581年 21 御館の乱の恩賞に不満を持った毛利秀広が、直江信綱と山崎秀仙を殺害する。上杉景勝は直江信綱の娘のお船を、直江兼続(樋口兼続)に嫁がせ直江家を継がせる。 このとき直江兼続は与板城城主(新潟県長岡市)となる。
天正10年 1582年 22 上杉景勝の領地である越中を柴田勝家の率いる織田軍に攻められ完全に制圧される。新発田重家の謀反もあり上杉家滅亡の危機にさらされるが、織田信長が本能寺の変で自刃すると、織田軍の北征は頓挫し、上杉家は九死に一生を得た。
天正13年 1585年 25 豊臣秀吉が越中・富山城に攻め込み、佐々成政を降伏させる。越中攻略後、その足で豊臣秀吉はわずかな兵を率いて上杉家の勝山城に現れ、景勝との会見を申し入れた。家臣から豊臣秀吉を討つ案も出たが、上杉景勝は「義」を持って断り、同様にわずかな手勢で豊臣秀吉と初対面し、「越水の会談」といわれている上杉景勝・直江兼続・豊臣秀吉・石田三成の四者対談が行われた。
天正14年 1586年 26 直江兼続が新潟城(新潟県新潟市)と沼垂城(新潟県新潟市)から新発田勢を駆逐する。
天正15年 1587年 27 豊臣秀吉の支援を受け、上杉軍が新発田重家を攻める。直江兼続が新発田城(新潟県新発田市)を落城させ、新発田重家の乱を終結する。
天正16年 1588年 28 豊臣秀吉から上洛要請があり、直江兼続は上杉景勝について上洛する。豊臣秀吉から豊臣の姓を授けられ、豊臣兼続としてあらためた。直江兼続は豊臣秀吉から家臣になるように誘われるが忠義を貫き、誘いを断り、上杉景勝に生涯仕えた。
天正18年 1590年 30 豊臣秀吉の小田原征伐に従い上杉景勝、直江兼続の率いる上杉軍は上野国松井田城・武蔵国鉢形城を攻略し、八王子城を攻めた。
文禄1年 1592年 32 豊臣秀吉が朝鮮への出兵し文禄の役がおこる。上杉景勝、直江兼続も出兵し渡韓する。渡韓した際、直江兼続は自軍に略奪行為を厳しく戒めたといわれている。
慶長3年 1598年 38 豊臣秀吉の命令で上杉景勝が越後から会津120万石に加増移封されると直江兼続にも出羽米沢(山形県米沢市)に30万石の所領を与えられた。会津移封後、豊臣秀吉の命により直江兼続は庄内地域などで太閤検地を行い、民・義・故郷への「愛」を貫き、治水事業など民のために領地整備に尽力した。
慶長5年 1600年 40 豊臣秀吉の死後も豊臣家や石田三成への義を貫き、上杉家は豊臣方につき、徳川家康と対立する。上杉家の謀反の疑いについて直江兼続が直江状を徳川家康に送り、会津征伐と関ヶ原の戦いが起こる。上杉景勝は会津征伐から撤退する徳川家康軍を背後から責めることを「義」をもって行わなかった。徳川家康軍の撤退後、直江兼続は西軍として最上義光の守る山形(山形県山形市)へ総大将として3万人の精鋭を率いて侵攻した。長谷堂城の戦い(山形県山形市)で苦戦する最中、関ヶ原の戦いで西軍の大敗の知らせが入り、直江兼続は会津へ撤退した。
慶長6年 1601年 41 上杉景勝とともに直江兼続は上洛して徳川家康に謝罪する。徳川家康から罪を許された上杉景勝は米沢30万石(山形県米沢市)に減封される。米沢に移り住んだ直江兼続は民・義・故郷への「愛」を貫き、治水事業など民のために領地整備に尽力した。
慶長18年 1614年 54 大阪冬の陣がおこる。上杉景勝・直江兼続は徳川方で活躍し、嫡男平八景明と殿軍を務める。
元和元年 1615年 55 大阪夏の陣がおこり、上杉景勝・直江兼続は徳川方で活躍する。大阪城は落城して豊臣秀頼、淀君自刃して豊臣氏が滅亡する。この年、嫡男の平八景明が死去する。
元和5年 1619年 60 直江兼続が江戸の上杉家屋敷にて60歳で死去する。山形県米沢市の徳昌寺に埋葬後、林泉寺に改葬される。

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